2008年08月05日

◆遊んでいた?園田外相


渡部亮次郎

1978年8月13日、園田直外相に従いて日航特別機で北京を訪問した時、日本大使館には佐藤正二大使の下に公使として伴(ばん)正一氏がいた。私は初対面の人だった。

その伴さんが外務省を退官されたあと88年5月に東京・文京区にある(財)日中友好会館の理事長に就任。日中平和友好条約締結10周年にあたる同年8月13日、郷里の高知県高知市の高知阪急ホテルで「日中平和友好条約締結に参加して」と題して講演された。

その講演録を最近、偶然の機会にインッターネト上でみつけたので紹介したい。原文は以下。なお伴氏は中国公使の後退官、衆院選に出たが落選を繰り返した後に日中友好会館理事長。その後死去。

http://www.yorozubp.com/shoichiban/column/1988nicchuyuko.htm

日中平和友好条約は田中、三木の内閣2代に亘って締結できなかったのは中国側の事情による。それが急遽できたのは中国を取り巻く国際情勢が変化したため。

<交渉は大詰めまで我々事務サイドがやった。園田外相は遊んでいたようなものだ>

と園田の死後とはいえ厳しい事を言うものだ。以下、前半部分をほぼ原文のまま紹介する。

後半部分は「終わる対中借款」と題する「頂門の一針」1014号(2007・12・02)上の拙文の中で紹介している。伴氏は昭和26年度外交官試験合格のキャリア。
http://www.melma.com/backnumber_108241/

<日中間のことに携わるのは気の重いことが多いわけでして、私にとっては(理事長就任を)祝って頂くという気分には到底なれません。

そんなことはどうでもいい、と言っているうちに妥協案としてこの記念講演会ということになった訳であります。

日取りについては、そこまで考えずに13日のこの日を取ったんですけれども、実は10年前の丁度今ごろの時刻、当時の北京時間の正午、意気揚々たる園田外務大臣が北京から飛び立ちました。

日本時間で言うと午後1時であります。いま1時半を廻ったところですから、ピタリ10年前の今頃、園田大臣は条約調印の大任を果たし日航特別機の機上で記者団にホラを吹いていたはずであります。

我々大使館員は、ちょっと趣が違いまして、何か気が抜けたような感じで、今頃大臣を見送って空港から帰りつつあった。

それからちょうど10年、この演壇に立って感慨一入であります。

駐中国公使として北京へ

私が昭和52(1977)年に着任いたしまして、経済界、文学の世界、政界の方が北京へみえます。例によりまして、皆さんもご経験がおありでしょうけど、中国へ行くと必ず向こうが歓迎宴というのをやる。

そうするとこちらが又答礼宴というのをやる。その始めにまことに仰々しいかしこまった挨拶をやるわけですけれども、その挨拶をずっと半年間聞いておりまして、ほんとにイヤになりました。

日中平和友好条約が締結に至りませんで誠に申し訳ない。いかにも福田{赳夫}総理が優柔不断でお国に迷惑をかけておりますと解釈されるような挨拶ばかりなさる。日本の政界、経済の方がなさる。

私が1番ガッカリしたのは、誰かが書いた原稿を読んだのかも知れませんが、井上靖さんまでが申し訳ない式の挨拶、少なくとも先方はそう受け取るであろう挨拶をされたときでした。

着任してから1年間で、中国側にそういうおべっかを言わなかった代表団は私の記憶ではたった1つ。それは今は冴えておりませんけれど、二階堂さん。二階堂進さんだけはそんなこと言わなかった。だからよく覚えております。そういう状況でございました。

条約締結交渉の始まり

日本と中国の間には2000年の繋がりというか、親しくなるとどの国もそうなるんですが、日米だってそうだし、日韓だってそうですが、正規の外交ルート以外のいろんなルートやパイプができ上がるものです。

外務省にいた我々はそれを雑音といったわけですけれども、雑音があちらこちらに出る。

雑音といっては失礼になりますが、その1つが矢野訪中。矢野公明党書記長がやってきて、そのときにこともあろうに、安倍晋太郎官房長官のメモなるものを持ってくるわけです。そして向こう側へ渡す。

そしたらその翌々日に廖承志がこっそりホテルの矢野さんのところへ来て中国側のメモを渡す。!)(トウ)小平と矢野さんが話すときにまるで条約交渉みたいな話が行われる。

我々はもうあっと驚いたわけです。こういうことをやっとったら政府間交渉は馬鹿みたいなことになるではないかということで、これの後始末をいたします。中国側も日本側もそれからは雑音が少し減るわけです。

いよいよ外務大臣がいつ来る、などという話に入りかかつておりますと、今後は4月12日明け方、尖閣列島周辺に200隻近い中国の大型の漁船が我が領土、尖閣列島を取り巻くわけです。日本側は上を下への大騒ぎになります。

私もその頃、日本側として尖閣列島問題に対して当然、不快感を示さなくてはいかんと、いつも仲のいい外交部の人たちにモノを言いかけられてもこっちは返事もせん、ブスッとして、「なんということをなさるんじゃ」という顔をし続けたわけでございます。

今後もこれに似たようなことはあるかもしれない。ちゃんと和やかな話をしているときにそんなことしなくてもいいじゃないか。中国側は全く偶然だったというんですけれど、どう考えても偶然とは考えられない、というのが偽らざる気持ちでした。

中には機銃を積んでいた船もあるというんですからね。 


尖閣列島はご存知だと思いますけれど、中国は中国の領土だという、日本は日本の領土で、そんな領土問題は存在ないといってるんです。「そんな問題はない」というのと「棚上げにする」というのと、この2つは非常に違うわけで、

ちょっと解説しますと、例えば宿毛市の沖の島をある日突如として中国が自分の領土だと言い出したらどうなります。それでも領土問題ですか。
「アホなこと言うな、そんな問題はない言い掛かりだ」と言わなくてはなりませんね。沖の島問題というのがあつて棚上げするということではないんです。

尖閣列島については、日本はずっとそういう立場をとってるわけで、向こうじゃ領土問題があって、しばらくそれを横に置いてあるんだと言ってるわけです。

日中双方の話がまとまっていよいよ条約が締結ということになった段階で、中曽根さん、後には大宰相か、と言われますけど、当時は中曽根総務会長。尖閣列島をちゃんと片をつけてからでないと条約を結んではならんといわんばかりのことをおっっしゃっていました。

当時の自民党総務会の剣幕は大変なものでそうそうたる青嵐会の台湾派がおります。だから中曽根さんも総務会を収拾するために敢えて本意ではない強い意見も言われたのかもしれませんけど、とにかく条約を調印するには尖閣列島の領有権をはっきりさせてからやれという訳です。

それじゃブチ壊しで条約を結べる可能性は吹っ飛んだでしょうね。

そういう日中双方にとっての鬼門みたいな尖閣列島に大船団現わるというんですから、ここでまた条約が延びてしまいます。

あっけない大詰め

話を飛ばして申し上げますが。なんじゃかんじゃやりながら実際に交渉が始まるのが昭和53年の7月21日。条約締結、両国国旗の下で調印するのは8月12日、10年前の昨日です。しかし実質上の妥結は実は8月9日なんです。

この間にエピソードがありまして、当時、福田さん(首相)と園田さん(外相)の行き違いみたいなことがありまして、福田総理は外務大臣の訪中をなかなか許可しなかった。とことんまで事務レベル、大使レベルで詰めろという強い意見だったわけです。

私など、どんどん詰めましょう。大臣なしで大使で妥結まで行っていいじゃないですか。大臣の忙しい日程に合わしていたらタイミングを失しますよとかなり強い調子で意見具申をしていたんですけれど、佐藤さん(正二大使)は取り上げてくれなかった。やはり大臣の出番を作ろうということになった。

大臣の出番を作る、作らんと言うのは、こういう大きな交渉のときは非常に微妙な問題でして、大臣が出るということを向こうが思うと最後の案は出してこないんです。大臣が来ない、ここで仕上げてしまおうということになると最終案が先方から出てくるんです。ここら辺の絡みは微妙で難しい。

ところで外務大臣の園田さんは来たくてたまらない。結局予定の方針通り園田さんが8月8日に北京着。その翌日の8月9目に外務大臣会談が行われるわけです。

ところがですよ。午後の会談でまだろくに議論もつくしてないうちに向こう側からバサッとこっちの案、大使交渉段階で出していたものをアッサリ呑んできた。アッと驚く事態でした。

これができたらあとは小さい条文を条約局の専門官が打ち合わすだけの話だから10日、11日と園田大臣は遊んでいたみたいなもんです。

なぜ向こうが突如として降りてきたかということですが、ここで世界情勢をお話申し上げないとこの説明がつかんと思います。

これは私の推測がかなり入っておりますけれど、今まで日本側に対して常に頭(づ)が高くて「日本はなんでソ連を恐れてグズグズしてるんだ。いい加減で肚を決めんかい」ということばかり言っていた中国がさっと降りた。

条約が結ばれたのは、ベトナムという第2戦線が出来て背後から中国を脅かすようになったからだと私は考えます。

平和友好条約が8月12日に調印されて、それから3カ月で今度は、朝鮮戦争以来アメリカと国交断絶をしていたのが、国交を回復します。台湾というむつかしい問題を抱えながら、アメリカと国交回復する。

そうなると、中国は日本を味方にし、アメリカを味方にし、その余勢をかってヨーロッパの協力も得てソ連を逆包囲する。こういう作戦に出たとしか考えられない。

中国というのはのろいようなところもありますし、なかなか返事が来ないなど悠長なところもありますけれども、国際政治における敏感さにおいては日本外交の比ではない。

日本も戦前は、日本の存亡を賭けた外交をやっておりました。しかし、いま日本には存亡を賭ける外交なんてないんです。世界でスパイを使ってないのは日本だけでしょう。

そういう平和のぬるま湯にベタッとつかっているのは日本だけです。そういう意味では外交がふやけてくる。ふやけるというと怒られるけどそうなり勝ちなのもやむをえないことではありますまいか。

とにかく日中平和友好条約が結ばれたときの中国の鮮かな布石、みごとだったと思います。亡くなった園田外務大臣には申しわけないけれど、園田さんは得意満面に「俺がやった、俺がやった」とおっしゃるけれども、それは当時の世界情勢とアジア情勢が中国をそうさせたのであって、園田さんの手柄の部分は少ししかないと思うわけです。

そういうようなことで、10年前の昨日、調印が行われました。調印が行われたのは8月12目の午後7時です。実質妥結が9日だったのになぜそんなに遅れたかといいますと、中国側が降りてきたそのあとでも政府と大使館はそのことを新聞へはいっさい言わなかった。言えない事情があったんです。

総務会を中心とする自民党内部のすごい突き上げに対して、福田総理(総裁)や大平幹事長が必死の対応をしていたんです。いっときは総務会の同意がなければ調印は認めないなんて中曽根総務会長が言い張るのを大平さんとか福田さんが宥めたという一幕もありました。

9日に向こうが降りてからの日本国内での首脳の苦労は大変だったようで、今記録によりますと、調印のあった8月12日の午前、まだ総務会では大荒れの議論が続いている。

やっとそれが収まって午後、閣僚懇談会というのがある。そして閣議がある。4時10分、やっと天皇陛下のところへ伺って全権委任状というものに御名御璽をいただく、そして7時に調印という事務的には誠にきわどいスケジュールでありました。

調印の後、向こうの偉い人は全部出てきて、大宴会が人民大会堂で行われます。それから外務大臣の記者会見。公邸で関係者のパーティをやったのは、もう夜の11時半。「ああよかったなぁ」と互いに安堵の胸をなで下ろしたのであります>。

<園田さんは得意満面に「俺がやった、俺がやった」とおっしゃるけれども、それは当時の世界情勢とアジア情勢が中国をそうさせたのであって、園田さんの手柄の部分は少ししかない。>

ならばそうした情勢の変化を伴公使初め中国大使館から本省に意見具申があったのか。無かったではないか。伴公使の主張は「後出しジャンケン」に過ぎない。

中国の態度が急変したのは!)(トウ)小平が3度目の復活を遂げて、年来の主張である経済の改革開放路線を展開するためには、不可欠な日本と一刻も早く妥協すべきだという指令をしたからである。

それを園田氏はトウ小平周辺に放った黒衣(くろこ)を通じて知っていたが、伴氏ら大使館側は全く知らなかった。伴氏は死ぬまで知らなかったろう。 2007・11・02

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック