2008年08月06日

必読! ◆竹島「密約」のあった時代


                        渡部亮次郎

韓国人のビジネスマンが日本語で「竹島密約」という本を書き7月を目途に東京の出版社「草思社」から出版する。韓国が「独島」と称して両国間で領有争いが収まらない「竹島」について「共に領有を主張しない」という密約があったことを喝破する本である。

日本政府代表を務めた佐藤内閣国務大臣河野一郎。その河野氏を担当して事情を知る記者は私1人になってしまった。著者ロー・ダニエルさんの突然の来訪を受けて、事実を改めて回想する次第。7日夜、江東区内で一献酌み交わす予定である。

ダニエルさんの書き上げた本の「プロローグ」を基に話を進める。

「竹島密約」とは、1965(昭和40)年6月に「日韓基本条約」が正式に締結される5ヶ月前、河野一郎国務大臣と丁一権韓国国務総理の間に結ばれた秘密の取り決めを指す。公式に明らかにされた事は無い。

端的に言えば、日韓の国交正常化のために領土紛争を永久に「棚上げ」する「未解決の解決」が中身である。直接かかわったのは日本では河野一郎、宇野宗佑衆院議員(後に総理)、嶋元謙郎読売新聞ソウル特派員の各氏、韓国では丁一権、金鐘珞(金鐘泌元韓国総理の兄)。さらに密約を了承した佐藤栄作総理大臣と朴正煕大統領の計7氏。

この事実をダニエルさんに教えたのは中曽根康弘元総理大臣で、2年前の2006年6月のことだったという。ダニエル氏は驚きを以って裏づけ取材に奔走、事実を確認した。

いくら当時の河野番でも、宇野氏と毎晩のように呑んだ仲の私でも知らされなかったこと。おそらく中曽根氏も後に総理になったが故に知った事実であったろう。「河野派を除名する」と河野氏に嫌われていたのに、河野氏の急死に救われた経緯があるから。

密約は永年遵守されていたが、1993(平成5)年に第14代大統領に就任した金泳三氏が「倭(日本)の奴らの悪い行儀を直す」と公言して「わが領土独島」に新たな接岸施設を作り「密約」を無視して問題は今日に至る。

元々1951(昭和26)年9月に調印されたサンフランシスコ講和条約では竹島・独島は、日本が韓国に返還すべき領有権の中に含まれていなかった。

これを外交の「敗北」と受け取った当時の李承晩大統領は日本では「李ライン」と呼ばれる「平和線」を一方的に宣言し、その領域の中に竹島を入れた。ここから竹島・独島の領有権争いが本格化した。

しかし1961(昭和36)年5月16日、軍事クーデターによって政権を奪取した朴正煕大統領が目標とする「韓国の明治維新」をなすためには、両国関係の正常化と日本からの資金導入は不可避だった。

そのためには韓国ではタブーだった「親日」を敢えて恐れない朴氏と朴氏の姪の夫でもある金鐘泌(韓国中央情報部長)は新しい日韓外交の幕を開けた。

そこでまず1962(昭和37)年11月に池田勇人内閣の外務大臣大平正芳氏と金鐘泌氏との間に「大平・金メモ」が作成され、残るは竹島・独島の帰属問題となった。

とはいえ金鐘泌の失脚、日本側の窓口大野伴睦自民党副総裁の死去で交渉のエンジンは冷えた。そこで登場するのが河野一郎氏である。

池田総理の懇願で大野後継を受諾。代行は元秘書で衆院議員に当選してきたばかりの宇野宗佑氏を指名。

韓国側は金に代わって兄の金鐘珞氏(韓一銀行常務)が宇野氏のパートナーとなった。彼が朴大統領には革命同志であり且つ日本で教育を受けた日本通であったからである。この間実質的に両者の連絡役を務めたのが当時、読売新聞ソウル特派員だった嶋元謙郎氏である。

嶋本氏は植民地統治時代に「京城日報」の編集長だった父の下でソウルで中学校まで通った韓国通だったから、朴政権の日本側コンサルタント役を務め、朴大統領の側近からは「VIP」と称されていた。このことは河野氏も認めていた。

宇野、鐘珞両氏の作業は順調に進み、1965(昭和40)年1月11日、ソウルの某財閥オーナーの邸で河野一郎作成にかかる「メモ」が宇野氏から丁一権国務総理に渡された。嶋元氏は側でメモを取っていた。

文書は直ちに朴大統領に届けられ裁可を得た。宇野氏は嶋元氏を伴って直ちにソウル南部の龍山にある米軍基地から特別回線を使って河野氏に報告。

河野氏はそれをワシントン滞在中の佐藤総理に報告した。「竹島密約」成立の瞬間、佐藤・ジョンソン声明が発表される1日前だった。しかし佐藤氏は間もなく河野氏を内閣から追放した。

日韓基本条約は6月22日に調印されたが河野氏は7月8日に腹部大動脈瘤破裂のため急死した。67歳だった。

韓国では朴大統領が部下に射殺された。その後、竹島密約文書を自宅に保管していた金鐘珞氏は身の危険を感じる事件のために1980年5月17日に連行される前にメモを燃やした。

メモの作成を日本側では逐一、椎名悦三郎外務大臣に報告されていたが韓国側では外務長官は勿論駐日大使にも知らさなかった。だから文書は日本にしか残っていないわけだ。

しかも竹島・独島の置かれた政治的現状を見れば日韓間には「密約を交わせる時代」があった、と悲観的に回顧する以外に無いのは残念だ。
2008・04・05   (再掲)

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