2008年08月21日

◆中国特派員を縛る協定


渡部亮次郎

中国特派員を雁字搦めに縛る協定の存在を知っていますか。この協定があるので、中国に派遣されたわが国特派員たちは取材の自由をまったく失い、監視されつつ、国外追放処分に怯えながら記事を送って来る。

そのが記事が往々にして中国のお先棒か次の色彩を帯びたり、ゴマすりだったりする事は当然である。国外退去ともなれば中国語記者はそれで人生を閉ざされるのだから神経のやせ細る思いで自己規制に身を更に削るのである。

日中記者交換協定がそれである。一般の人は見たことも聞いたことも無いはずである。だが日本と中国の間で取り交わされた、日中双方の記者を相互に常駐させる取り決めのこと。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」は厳然として日本を縛っているのである。

@日本政府は中国を敵視してはならない

A米国に追随して「2つの中国」をつくる陰謀を弄しない

B中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない

すなわち、中国政府(中国共産党)に不利な言動を行なわない・日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾(中華民国)独立を肯定しないことが取り決められている。

違反すると、記者が中国国内から追放される。中国に対する正しい報道がなされていないと批判があるのはこの協定のためだ。

始まりは国交正常化前の1964(昭和39年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助(元通産大臣)事務所と廖承志(早稲田大学卒業)事務所が、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。

会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員(自民党)と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。

要するに日中国交正常化に弱腰な自民党政府にシビレを切らした新聞、通信、放送各社が自民党内親中派の松村氏らの尻を叩いて結ばせた民間協定である。

記者交換に関する具体的な事務は、入国手続きを含めて廖承志事務所と高碕事務所を窓口として連絡し、処理する。

交換する新聞記者の人数は、日中とも8人以内とし、1社1人の記者を派遣することを原則とする。

第1回の記者の派遣は、1964年6月末に実現することをめどとする。 記者の相手国における1回の滞在期間は、1年以内とする。

相手方新聞記者の安全を保護するものとする。 取材活動に便宜を与えるものとする。(嘘吐きは協定の始まり)。

双方の記者は駐在国の外国新聞記者に対する管理規定を順守するとともに、駐在国が外国新聞記者に与えるのと同じ待遇を受けるものとする。相手側新聞記者の通信の自由を保障する。

かねて周首相と松村氏との間に意見一致をみた両国友好親善に関する基本5原則、すなわち両国は政治の体制を異にするけれども互いに相手の立ち場を尊重して、相侵さないという原則を松村・廖承志会談において確認し、この原則のもとに記者交換を行なうものである。

協定は猫を被っていた。1966年に走資派排除の文化大革命が始まるとキバを剥き始めるがん日本側はそれも受け入れてしまう。佐藤栄作内閣下の1968(昭和43)年3月6日、新聞記者の相互交換についても、発表した会談コミュニケに示された原則を遵守し、日中両国民の相互理解と友好関係の増進に役立つべきものであると一致して確認した。

問題はコミュニケの内容である。

「双方は、日中両国は近隣であり、両国国民の間には伝統的な友情があると考え、日中両国国民の友好関係を増進し、両国関係の正常化を促進することは、日中両国国民の共通の願望にかなっているばかりでなく、アジアと世界の平和を守ることにも有益であると認めた。

中国側は、われわれの間の関係を含む中日関係に存在する障害は、アメリカ帝国主義と日本当局の推し進めている中国敵視政策によってもたらされたものであると指摘した。


日本側は、中国側の立場に対して深い理解を示し、今後このような障害を排除し、日中関係の正常化を促進するために更に努力をはらうことを表明した。

中国側は、中日関係における政治3原則と政治経済不可分の原則を堅持することを重ねて強調した。日本側は、これに同意した。

双方は、政治経済不可分の原則とは、政治と経済は切りはなすことが出来ず、互いに関連し、促進しあうものであり、政治関係の改善こそ経済関係の発展に役立つものであるとの考えであることを認めた。

双方は、政治三原則と政治経済不可分の原則は、日中関係において遵守されるべき原則であり、われわれの間の関係における政治的基礎であると一致して確認し、上記の原則を遵守し、この政治的基礎を確保するためにひとつづき努力をはらう旨の決意を表明した」。

池田内閣よりタカ派の佐藤内閣を意識し、国交正常化に悲観的になった中国側の高姿勢のコミュニケを呑まされた上に、「記者交換の人数をそれぞれ8名以内からそれぞれ5名以内に改めることに一致して同意した」のである。

このように協定は日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日、読売、毎日新聞、NHKなどや、今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。

以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。

この協定に関連して、文化大革命期に産経新聞を除く新聞各社は、中国当局からの台湾支局閉鎖の要求をのんで中国に支局を開局したという経緯がある。

国交の回復した以後の1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」(日中常駐記者交換覚書)も交わされた。 現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。

日本政府が中国側記者を国外退去処分にした事はいまだ嘗て無いが中国からの国外退去処分の事件はある。産経新聞の北京支局長・柴田穂は、中国の壁新聞(街頭に張ってある新聞)を翻訳し日本へ紹介していたが、1967年追放処分を受けた。この時期他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。

<■唸声日本/産経新聞・斎藤勉編集局長、大いに語る
当時の北京支局長・柴田穂氏は壁新聞(当局に都合の悪いことも)を次々と翻訳し日本へ紹介、1967年産経・毎日・読売の追放、1970年共同追放で朝日新聞以外は全ていなくなった。

1998年、31年ぶりに特派員の再開となるが、これは中国側からの要望でもある。特派員追放からは台北から大陸情報を得ていたので中共ご用達の朝日とは違った情報を掴んでいた。これが中共の癇に障ったための再開でもある

当初、中国側は台北支局を閉じ、北京支局にまとめることを条件としていたが、これに産経は応じず、中国総局(北京4名・上海1名)との呼称で譲歩をみせた。台北支局より総局が上と言う中国人の面子を利用したのである。>。2007/09/24  00:17

80年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。

90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道したなどとして、国外退去処分を通告された。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。

要するに国交正常化(1972年)以後、中国における日本人ジャーナリストの活動は制限を解かれたとするのは全くの誤解であり、取材の自由は殆ど無いことに変わりは無い。

国交正常化前に他社を出し抜いて特派員を派遣したいとかいた欲の足元を見た中国側の「勝利」であり、日本側各社はいうなれば自業自得としかいいようが無い。福田康夫内閣の叩頭外交を批判できないのも、その延長上だからである。 2008・08・17

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック