2008年08月24日

◆森永砒素ミルク事件


                     渡部亮次郎

手許にある『366日の話題事典』によると森永砒素(ひそ)ミルク中毒事件は、1955(昭和30)年の8月24日から表面化したとなっているが、事実は6月頃から起きていた。

被害者12,344人、うち死亡者130名と言われているこの事件は主に西日本を中心として起きた。わが国で食の安全性が問われた事件の第1号である。

粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者、中毒患者。私は大学2年生で、東京・三鷹に下宿。事件の経過を新聞で注目していた。テレビは一般化していなかった。

森永側が原因をミルク中の砒素化合物と認めたのは、発生から15年経過した1970年の裁判中のことである。更に事件から51年後の2000年には6月から7月にかけて、近畿地方を中心に雪印集団食中毒事件が発生した。

この際、雪印乳業大阪工場の杜撰な管理体制が暴露され、元社員たちは「あの雪印がこんな事故を起こすとは。自分達の経験は、教訓は一体何だったのか」と嘆いたという。

当初は奇病扱いされたが、岡山大学医学部で森永乳業製の粉ミルクが原因であることを突き止めた。

実際には森永乳業が1953(昭和28)年頃から乳製品の溶解度を高めるために、安価であるという理由で工業用の砒素を触媒にして作られた化合物を粉ミルクに添加していた。

まだ食糧難の時代。森永乳業製の粉ミルクの購入には医師の処方箋が必要であった。それほど珍重されていたと言う事でもある。しかし1955年8月24日、岡山県を通じて当時の厚生省(現厚生労働省)に報告がなされ「事件」として発覚することとなる。

1956年当時の厚生省の発表によると、砒素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が出た被害者の数は、12,344人で、うち死亡者130名とされた。

だが当時は障害を隠す傾向が強かったこともあり、これ以上の患者が発生したことは確実である。また、認められた患者についても消費者の権利が確立されていない時期でもあり、満足の行く救済措置がされない患者は多かった。

患者は、2008年8月23日現在も脳性麻痺、知的発達障害、てんかん、脳波異常、精神疾患等の重複障害に苦しんでいる。

手足の動かない身体をかがめ、皿に注がれたお茶を舐めるように飲むなどの日常を強いられている。

また、就職差別や結婚差別を受けたり、施設に封じ込められたりした被害者や、ミルクを飲ませた自責の念で、今なお精神的に苦しんでいる被害者の親らも多い。

なお、森永側が原因をミルク中の砒素化合物と認めた1970年の裁判中の際、森永側は、第二燐酸ソーダの納入業者を信用していたので、自分たちに注意義務はないと主張していた(一方、納入業者はまさか食品に工業用の薬品を使用するとは思わなかったという)。

しかし後に、国鉄仙台鉄道管理局がボイラー用の「洗剤」として、森永と同様、日本軽金属が生成した第二燐酸ソーダを使っていたにもかかわらず、使用前の品質検査で砒素を検出し返品していた事実が明らかとなった。

「食品」としての品質検査が必要ないと主張していた森永の態度は厳しく指弾され、1960年代には、森永製品のボイコット運動が発生した。

その後、2001年から2002年にかけて発生した雪印牛肉偽装事件(雪印乳業本体ではなく子会社不監督)がイメージ上の決定打となって、グループの解体・再編を余儀なくされる結果となった。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008・08・22


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