2008年09月05日

◆貝原益軒を知らない?


渡部亮次郎

貝原益軒 かいはら えきけん 1630年11月14日〜1714年10月05日(陰暦 08月27日)。世界最長寿国日本誕生のための学問の元祖とも言うべき大学者なのだ。或いは日本のアリストテレスと称える人もいる。

当時としては驚くべき長寿の83歳の正徳2年(1712年)に自身の実体験に基づいて「養生訓」(ようじょうくん)を遺し2年後、当時としては想像もできない長寿を実践した。長寿を全うするための身体の養生だけでなく心の養生も説くというところに特徴がある。

『孟子』の君子の三楽にちなんで、彼は養生という点からの三楽として次のものを挙げている。

(1)道を行い、善を積むことを楽しむ
(2)病にかかることのないのを快く楽しむ
(3)長寿を全うすることを楽しむ。

また、その長寿を全うするための条件として、彼は、自分の内外の条件を指摘している。まず自らの内にある4つの欲を抑えることとして、次のものを我慢するべきだという。

(1)あれこれ食べてみたいという食欲(メタボ)
(2)色欲(SEX)
(3)むやみに眠りたがる欲(宿酔い?)
(4)徒らに喋りたがる欲(この輩は案外多い)

これらを押さえた上で、季節の暑さ、寒さ、湿度などの変化に合わせた体調の管理、これらが揃って初めて健康で長寿が生きられるという。結婚を39までせず、岡場所へも行かないと言うのでは私に長寿は無縁だ。

これらすべて彼自身の体験で、これは愛妻家であった彼の妻もそのままに実践し、晩年も夫婦で福岡から京都などに物見遊山にでかけたりし、睦まじく長生きしたという。

福岡市生まれ 福岡藩士。大学者として『養生訓』他多くの著書を残す。

1630(寛永7)年11月14日、福岡城内の東邸で誕生、父貝原寛斎(1597-1665)の五男として。父寛斎(孫太夫利貞)は黒田藩主、忠之、光之に前後15年間仕えた。食禄百。50石ほどであった。

益軒は名を篤信(あつのぶ)、通称は久兵衛と言った。6歳で母死別、母親代わりの「地行婆」という家政婦に当たる人に兄弟共に育てられた。

7歳ころ現在の博多築港辺りに移住、幼い頃から環境もあったか、読書好学の精神が見られ平仮名、片仮名を覚え小説・草子類を好んで読んでいた。

8歳の冬、父の異動で一家は穂波群は八木山(現飯塚市)に又父、長兄が島原の乱に参加、留守中次兄から漢字、漢詩等を学びいろいろ勉強、読書好きで「平家物語」「保元物語」・・・古典を人に借りて愛読している。彼が「四書」を始めて読むようになったのは14歳のときである。

11歳の時、福岡に帰り、さらに怡土群(いとぐん)井原村(前原市前原)に移住、この時に「太平記」を読んでいる。次兄存斎について学んだ益軒は、終生特定の師について学ぶことはなかった。

次兄は医学を学びに京都に留学しているが、医学より儒学を好みしかも仏教を排斥、益軒にも仏教信仰を捨てるように教えている。この影響は大きく、この頃当時の新しい学問、朱子学への第1歩を踏み出した。

一方、父からも医薬の知識を受け、自らは「医学正伝」「医方撰要」「万病回春」等を読み、ほぼ医薬の道も知るようになっている。次兄について学んだ儒学、17歳の時に「小学」を読んでいる。

1648(慶安元)年、19歳の時に初めて出仕(藩主に仕えること)、藩主忠之の御納戸御召料方(おなんどおめしりょうかた)という衣服調度の出納係りの近侍となり4人扶持を受けるようになった、これ以降48年間、光之・綱正と3人の藩主に仕えてさまざまな業績を残した。

出仕・長崎生活・浪人・江戸生活(19-27歳)、生涯12回江戸へ。京都へは24回も行っている、福岡藩長崎警備で藩主に同行、一時期藩主の機嫌を損ね、免職、浪人生活(7年間)にもなっている。

この間自費で前後3回にわたって長崎に遊学、積極的に中国文化の摂取・吸収に務め、唐通事・蘭通事とも交際している。


長崎での医学修行等を経て、1655(明暦元)年26歳の時、父寛斎を世話するために江戸へ、その時、髪を剃り、名を柔斎と改め医者に。長崎での勉強、父の影響もあった。

江戸では藩邸内の藩士に親愛されその力量も認められていた。いわば独学でアリストテレスを目指す益軒は、この頃から医学より儒学に力を入れ、林羅山(1583-1657)又その第三子、当時38歳の林鵞峰(1618-80)らとしばしば交流している。

同年(27歳)福岡に帰り藩主交代(光之)微禄であるが6人扶持で再出仕。

再出仕・京都遊学(28歳−35歳)藩主、黒田光之に仕え、1657年水郷・柳川の立花家、立花勘左衛門重種の組に配置、この後長く交際する。

早々に京都遊学の命、儒者、松永尺五(1592-1657)・山崎闇斎(1618-82)等訪問、尺五死後、その門人木下順庵(1621-98)と交流している。

1年近くその講義を聴き、2人の間には学友的な交情があった。又この間いろいろの人との出会いをしているが、中でも向井元升(1609-77)、宮崎安貞(1623-97)は益軒が本草学に興味を持つようになったことで多大の影響を与えている。1664(寛永4)年、35歳で帰藩、(36歳−33歳)

39歳で結婚、黒田藩の支藩、秋月藩士の江崎広道の娘初(はつ)と。当時17歳、東軒と称した。22歳年下である。

夫人は和歌にすぐれ、筝・胡琴の演奏に巧みで一緒に演奏を楽しんだり、夫婦合作の軸物も伝わっており、年齢は離れていたが仲の良い夫婦であった。

幼君の教育、京都等での他学者との交流等々を盛んにしている。この時期の著書類、京都での最初の著書「易学提要」又、「読書順序」等、40歳、藩主光之から久兵衛の名を賜り、計200石の扶持となる。

再度主君参府の伴って江戸に入り、他学者交友、又既に朱子学尊崇をしていた益軒は「近思録備考」、「朱子文範」を著し、さらに深めている。

帰藩後、福岡城郭に近い荒津東浜(荒戸町)に邸宅が与えられ、ここを終生の安住の地とした。京都遊学、その他各地巡遊・・・処々勉学に励み、又多数の書編纂等々の充実した活動をしている・・・

その後も諸国巡遊(56歳〜70歳)を続け1685年、「西帰吟行」・・等、また継続して多数の著書あり(略)

(71歳〜85歳)諸学の大成と晩年 1700(元禄13)年7月(70歳)益軒は辞職を許された。1701年、著書「近世武家年略」「至要編」「宗像風土記」1702年、「音楽記聞」「扶桑記勝」の修補、「黒田家譜」の最終改訂をした。

1703年、「和歌紀聞」「黒田忠之公譜」・・、1704年(宝永元)「宗像三社縁起並附録」「菜譜」その後も多数の著書(略)

1707(宝永4)年、78歳、久留米の高良山に登り、古蹟を探訪するなど心身ともに旺盛で健康に注意してきた彼は、本草学の造詣が深く自分や、妻を始め肉親・知人のために薬を調合したことが日記のあちこちに見える。

上京する弟子に和漢の薬草の注文を出したりもしており、晩年の「用薬日記」になり、有名な「養生訓」に繋がっていく。

1713(正徳3)年、東軒夫人が62歳で病没、福岡、金龍寺で葬儀、その墓は今もなお、益軒の墓と並んで長い年月、風雪に耐えている。この年「養生訓」が著されている。養生訓、和漢の事績を引用して通俗的に述べた書、8巻(広辞苑)。

しかし愛妻に先立たれすっかり意気消沈、翌1714(正徳4)年に8月27日息を引き取った、享年85。    T.N.
http://fukuoka-senjin.kinin.com/wiki/index.php?%B3%AD%B8%B6%B1%D7%B8%AE
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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