2008年09月09日

◆「負けるが勝ち」とは



渡部亮次郎

「負けるが勝ち」とは「一時は相手に勝ちを譲り、強(し)いて争わないのが、結局は自分に勝利をもたらすということ」(「大辞泉」)「強いて争わず、相手に勝ちを譲るのが結局は勝利となる」(広辞苑)

連合国に敗戦を体験した世代はこの諺を叩き込まれた。しかし体験せず、生まれ落ちた瞬間から自由と民主主義と自己主張の大切さを教え込まれた団塊の世代以降の人たちは、負ける事が最後には勝者になることの真意が理解できない人が多い。

ところがインターネットを逍遥していたら、多分、アメリカからの留学生が、自己主張の国育ちの青年が、京都のおばあさんからこの諺を教わり、納得した事を弁論大会で語っていた。

日本で得た知識や経験

「負けるが勝ち」 ジョシュワ・ウィークス(Joshua Weeks)
http://kyotowestlions.jp/benron01/t01-06.html

この間、お世話になっているホストファミリーのおばあさんからおもしろい話を聞きました。日本では「負けるが勝ち」という慣用句がある、という話でした。

僕はその日、ホストのお母さんと小さなケンカをしていたので、おばあさんはその解決法をアドバイスしようとしたのです。

「負けるが勝ち」というのはつまり、自分が賛成していなくても周りの人の意志に流されたり、自分が悪くないと思っても謝ったり、自分のプライドを犠牲にすることで結局自分が得をする、ということです。

「私はずっとこうして生きてきて、今は友達がいっぱいいて、楽しいのや。お兄ちゃん(僕のこと)もね、日本語上手やけど、日本人の心がまだわからへんやろ?」とおばあさんは言ってくれました。

この話を聞いて、僕はいろいろ考えさせられました。アメリカ人と日本人の心理の違いとか、集団主義と個人主義とか、両国の子供の育て方とか。そして僕は、アメリカ人は、これで何が学べるのかということも考えました。

僕のホストファミリーには2歳と5歳の子供がいて、ホストのお母さんとよく子供の育て方やケンカの解決のし方について話をしています。

日本では、ケンカなどをする時、お互いの行動を読み、自分の行動をそれに合わせて大ゲンカを避けることが好ましいと、お母さんが言いました。これを「以心伝心」と呼びます。

しかし子供達は小さい頃にまだこういったことができなくて、自分が考えたことをそのまま口に出してしまいます。

歳をとって行くにつれ、だんだん他人と調和して接することができるようになると、お母さんが続けました。

僕の考えでは、このような社交性はおばあさんが言っていた「負けるが勝ち」にとても似ていると思います。日本ではこのように、周りを見て、自分から合わせようとする行動が社会化と見られているようです。さらに一生を通して、このことが人間の成長と思われているようです。

アメリカ人はこれで何が学べるのでしょうか。

アメリカでは、争いをどう解決しているのかと質問されても、答えは不明です。自分が「素直に生きている」と思い、争いが続いても謝らないでいられる人が多いと思います。

日本では、平和そのものが好ましい目的として考えられているからこそ、人は簡単にうなずいたり、謝ったりすることができます。

アメリカ人も平和を自分のプライドより優先したら、ケンカや問題の解決や、平和の達成に役に立つはずです。

僕はその日、ホストのお母さんとケンカしてしまった時、早くこれに気付き、早く謝ったとしたら、絶対に問題が解決され、進んで行けるようになったはずです。

アメリカには、日本人、またはアジア人の「集団主義」を「自我の抑圧」として非難する人がたくさんいると思います。僕も、日本人の行動の中で個人の意志がなくされているのではないかと思ったことがあります。

しかしおばあさんの話を聞いて、彼女の生活を見て、感覚的に、「集団主義」を通じて幸せになっている人がいる、と分かりました。

毎日何時間も色々な地元に散らばっている友達と嬉しそうに話して、こう生きてきたことを誇り、そして自分の人生に満足感を持っている人だと強く感じました。


ずっと自分の意見をしつこく言って、後悔ばかりの人生よりこの方が遙かにいいと思いました。

そしておばあさんが主体的に生きているということにも注目しなければなりません。

「負けるが勝ち」という事は「自分の意志がない事だ」ともしアメリカ人が批判したとすれば、これは明らかに違うと思います。

おばあさんが選んだ「負けるが勝ち」の生き方は、仕方がないから集団に屈服するといった気持ちより、自分がそうすれば得をする、そして周りのみんなも得をする、という気持ちの方が強いです。

おばあさんが選んだ哲学は平和を尊重する哲学です。
しかも平和を高く評価することは誰でも尊敬するべきことです。

結局これは多様性を重視することに繋がります。

僕は、留学生として来日し、ここで日々を過ごし、自分と違った考えを持つ人と前より接する機会があり、もっと尊敬できるようになったと思います。

世界にはそれぞれの文化があり、それぞれの生活方法もあり、そして僕らはこの多様性を考慮しながら生きて行くべきです。これは、何よりも、僕の日本での体験から学んだことです。

そして自分と違った考え方、例えばアメリカ人なら「集団主義」をよく見て、よく分析したら、自分が学べるものを発見するかも知れません。僕もこれからケンカした時はおばあさんの話を思い出すと思います。

なぜ平和よりも自分のプライドを守ろうとするのでしょうか?いい答えが出ないかも知れません。逆に「負けるが勝ち」のやり方は全ての場合に有効じゃないかも知れません。

「調和」より大切なことがあるかも知れません。誰でも、たまに自分のプライドを犠牲にしても、たまに自分の考え方を少し変えても、それは自分にとっても、周りのみんなにとっても、いいことだと思います。(了)


2001年 外国人による日本語弁論大会 2001年11月25日(日)

(2001年度で15回目を迎えたこの大会は、京都市が「世界文化自由都市宣言」によって掲げた理想実現のための具体的施策の一つで、1987年度から毎年開催されている。毎年10ヶ国以上の外国人の方々30〜50人の応募があり、その中から選ばれた十数人が出場)。


前田正晶氏の意見:先週末のテレ朝の早朝番組に興味深い現象があった。何とか言う(八代?)弁護士がロシア人力士が大麻検査の結果を認めないことについて「外国人は自ら私がやりました−と認めることはしない」と発言した。

面白かったのは、これに対する鳥越俊太郎の反応で「そういうことを言ってはいけない」と気色ばんで制止した。ところが弁護士は同じ主張を繰り返した。

鳥越は発言を再度否定することを言ったのには、驚きを禁じ得なかった。鳥越がその発言が不穏当であるとか、誤りであるとも言わず、ただ否定するだけだったのは何故だろう?彼は何が政治的な背景でもあって、ロシア人をそのように言うことを「不味い」と感じたのかとすら思いながら聴いていた。

だが、この遣り取りはこれだけで終わり、他の出席者は何も言わなかった。私はテレ朝が瞬間に何らかの指示を出したのかなと思ったのだが。

何れにせよ、私はこの弁護士の発言は誤りではないと思っている。自らの過ちを潔く認めて謝罪するのは、我が国独特の美風であり文化であると固く信じている。諸外国にはそういう潔い文化も習慣も美風もない。

鳥越ともあろうものがそれを知らないとは思いたくない。そこで、背景を疑いたくなった次第である。もしも本当に知らないならば、そのような人物をコメンテーターに起用しているテレ朝の見識を疑いたくなる。

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