2008年09月21日

◆猪飼野に通った頃



      渡部亮次郎(全国版メルマガ 頂門の一針・主宰)


猪飼野(いかいの)は、大阪市東成区・生野区にまたがる、鶴橋から桃谷にかけてのJR大阪環状線東側と平野川に挟まる地域とその周辺の地域の総称。住居表示制度施行(1973年)前の地名である。

新住居表示では東成区の「玉津」「東小橋」、生野区の「鶴橋」「桃谷」「中川」「中川西」「勝山北」「勝山南」「舎利寺」「田島」辺りに当たる。

私が大阪暮らしをしたのは1973年夏から3年間。町名整理中だったのだろうが、私の歓迎会をしてくれた連中の誰もが、そんな事は口にせず、安いが高級な牛肉とホルモン焼きをおごってくれた。

秋田と大阪は離れているようで、関係が深く、住み着いている秋田県人の子孫も多い。謎は江戸期に北日本と大阪の物資流通を担っていた「北前船」。それに乗ってきた秋田人の水夫が大阪に留まった。大阪女にいかれたのも多かったろう。

初めて目にする韓国・朝鮮人集落は私にとっては珍しく、宴会といえば猪飼野という時期もあったぐらい。出て来る牛肉に紫色のスタンプが押されてそのまま出て来ることもあった。

内臓を「ホルモン」と呼んでいたが、これは以前は肥料に加工していたものだが、よく洗って「身体に力が付くホルモン(放るもん)」として出せば絶対売れるとか韓国・朝鮮人の知恵の勝利と言う説明も聞いた。

しかし、日韓併合時代、日本人は、自分たちは焼肉を食べていたが現地人には絶対、食べさせなかったらしく、1973年6月に初訪韓した我々日本人記者団に朴政権の閣僚は「大和(やまと)焼き」と言って出してくれたのが「焼肉」。漬けた肉を裁ちばさみで切った。

だから「焼肉こそは韓国が発祥の地」という韓国人の言は正しいが、但し、韓国人は戦前は目にはしても食べさせてもらえなかった料理である。戦後、大阪から帰郷した韓国人が始めたのが韓国式焼肉なのである。

古代・仁徳天皇の時代(5世紀前半)に、多くの「渡来人」がこの地にやってきた。特にこの地域は百済(くだら)からの渡来人が多く、古くは「百済郡」と呼ばれていた。

その渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術を持っていたことからこの地域を「猪飼野(いかいの)」と呼ぶようになる。

さらに、渡来人のもたらした優れた技術により、文献上の日本最古の橋がここを流れる「百済川」(現在の平野川)に架けられ、通称「つるのはし」と呼ばれたことから現在の「鶴橋」の地名の元となる。

近代以前は、この地は大阪有数の農村であり、大阪中心部への野菜の供給地であった。第1次世界大戦時の好景気を反映してこの地に工場の立地が相次いだ。

さらに、これまでくねくねと曲がって流れていた平野川をまっすぐに付け替える改修工事が行われ、労働者として朝鮮民族を中心に集められ、人口が急増する。

太平洋戦争を経て、この地に根ざした在日韓国・朝鮮人によってコリアタウンが形成されていった。出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「猪飼野(いかいの)」大阪の町から、この町名が消えたのは1973年2月1日。

当時、大阪市は町名変更で猪飼野地区(猪飼野東、猪飼野中、猪飼野西)は7つに分断され、隣接地域と統合。合併され「猪飼野」という町名は姿を消した。

「猪飼野界隈の歴史」では、当時の百済人との交流から千年以上もの時を経た現代まで、猪飼野の歴史として紹介していきます。
http://www.ikuno-koreatown.com/design/rekisi.html

【猪飼野界隈の歴史-序章】

百済門(くだらもん)をくぐるとそこはもう「小さな韓国」です。キムチを売る店、チマチョゴリの色鮮やかな民族衣装の店。焼肉の匂い。あちらこちらで、韓国語が飛び交います。

生野区は、住人の4分の1が、韓国・朝鮮籍だといいますが、このコリアタウン界隈は、明らかにそれより、もっと多くの、朝鮮半島出身者が住んでいます。

まだ日本語のたどたどしいニューカマーもいます。では、どうしてこんなに多くの韓国・朝鮮人が、この地に住んでいるのか。

日韓併合(にっかんへいごう)

明治以来、富国強兵政策をとってきた日本は、日清日露の戦争に勝利した勢いで1910年、朝鮮を併合しました。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」と、石川啄木はこれを憂(うれ)いました。朝鮮という国がなくなったのです。

日本列島から、朝鮮半島に、沢山の人が入植しました。列島ではうだつがあがらない人も半島では有利な経済活動をして、メイドを何人も雇えるほど、裕福な生活ができました。

逆に、半島から列島へ働きに来る人もいました。厳しい仕事を、劣悪な条件で働きました。1923年に、済州島(チェジュド)と大阪をつなぐ直行船「第1君が代丸」が就航してからは、済州島からも働きに来ました。

当時、在阪朝鮮人の人口が、毎年1万人ずつ増えたということです。大阪の生野・東成区辺りには、大阪城近くにあった砲兵工廠(ほうへいこうしよう)や、町工場(ゴム・ガラス・鋳物(いもの)・金属・鍍金(めっき)・染色などの製造工場)の仕事をする人が定住するようになりました。

半島から渡ってきた人たちの中には、身体的にはきついけれど、収入のいい土木作業に従事した人たちも多くいました。平野川の改修工事に携わった人たちの中にも、こうした朝鮮人が多くいたようです。

1945年、日本の敗戦は朝鮮の「光復」(クァンボク)です。大喜びで故郷へ帰りました。しかし全員が帰るには、船の段取りにも時問が掛ります。

そうこうするうちに、朝鮮(韓国)へ帰っても仕事がない、とか、政情が不安定、などの理由で、逆流が始まりました。帰り損ねた人、帰ったけれど、ふるさとに仕事がなくてUターンした人が、再び日本で住むことになりました。

大阪には、そのようにして在日韓国・朝鮮人が、たくさん住むようになりました。なかでも、生野区には一番多く在日コリアンが住んでいます。
                           2008・09・13

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