2008年10月08日

◆参院議長が知事になる


渡部亮次郎

<参院議長・前埼玉県知事 土屋義彦さん死去

元参院議長で前埼玉県知事の土屋義彦(つちや・よしひこ)さんが5日、多臓器不全のため、埼玉県春日部市の自宅で死去した。82歳だった。通夜・葬儀は密葬で執り行う。喪主は妻栞(しおり)さん。後日、土屋家と自民党の合同葬が執り行われる予定。次女は衆院議員の品子さん。

1926(大正15)年、東京に生まれ、静岡県下田市で育つ。大正製薬のオーナー社長だった叔父の故・上原正吉参院議員の秘書から埼玉県議を経て、 65(昭和40)年、参院議員に当選。連続5期務め、旧環境庁長官、参院自民党幹事長などを歴任し、88(昭和63)年、参院議長となった。


92(平成4)年には埼玉県知事に転じ「『三権の長』経験者が知事に」と話題になった。

以後、さいたま新都心開発やサッカーW杯誘致に伴う埼玉スタジアム2002建設などを手がけた。全国知事会長も務めたが、3期目途中の2003年7月、自らの資金管理団体を舞台にした政治資金規正法違反事件で長女が逮捕され、県庁や自宅が東京地検特捜部の捜索を受けた責任を取り、辞職した。

6日、春日部市内で記者会見した品子さんによると、土屋さんは糖尿病や高血圧で4月ごろから入退院を繰り返していた。最近は体調がよく自宅に戻っており、4日は普段と変わらない様子だったが、5日午前0時ごろ、家族が異変に気づいてから数分で逝ったという。

品子さんは「まさか急に逝ってしまうとは思っていなかった。寂しいが、やるだけの介護はやったという気持ちです」と話した。>
(Asahi Com 2008年10月6日19時22分)

私は記者時代、参院担当が長かった所為で土屋さんは個人的に懇意にしていた政治家である。1978年のボン(旧西ドイツ首都)サミットにも当方は外相秘書官として一緒に出かけた。その時のもう1人の参院議員は大阪選出の森下泰(仁丹社長)だった。

土屋さんは東京・新橋で寿司屋の出前持ちをしていた時代がある。大正製薬社長上原正吉さんの夫人の甥ではあったが、会社がまだ大きくなってないころ、「寿司屋の小僧だったのさ」と自ら語ったように気さくで飾らない明るい性格だった。

当時、参院は議長を3期9年間も務めた重宗雄三さんの「重宗天皇」時代だったが、土屋さんは重宗さんとは着かず離れずの恬淡とした態度を取っていた。時の首相佐藤栄作氏とは叔父を通じて直接つながっているという自負があったのかもしれない。

記者たちの受けもよく、国会内で社会部記者との交流を持っていたのは意外だった。参院議員を連続5期務め、旧環境庁長官、参院自民党幹事長などを歴任した後、自然な形で88(昭和63)年、参院議長となった。党内外に敵のいない政治家だったからだ。

92(平成4)年には埼玉県知事に転じようとした。『三権の長』経験者が知事にというのは三権の長を軽くするものという批判があったが、土屋さんのことなら仕方無いと大騒ぎにならずに知事になった。

<生い立ち。東京府北豊島郡高田町(現・東京都豊島区高田)に土屋澄男・初江の子として生まれる。次弟昭二。三弟祐三。

6歳の時、内務省技師であった父が急性肺炎で死去。母は義彦らを残して家を去ったため、義彦と祐三は父方の祖父母土屋仁作・たつも夫妻に引き取られた。

次弟の昭二(現・大正製薬会長)は澄男の妹・小枝とその夫上原正吉(当時大正製薬取締役)の養子となる。祖父の仁作は高田町会議員を務めた後、静岡県賀茂郡稲梓村(現・下田市)に移住したため、義彦も旧制中学(豆陽中学校)卒業まで同地で過ごす。

仁作は静岡移住後、酒屋を興し、稲梓村会議員も務めたが、義彦が中学在学中に死去。義彦は中学に通いながら祖母たつもと共に酒屋を切り盛りし、三弟祐三を育てるという苦難の少年時代を送った。

中学卒業後は大学進学を希望するも、既に祖父が他界していたこともあり叶わなかった。寿司屋の出前持ちはこの頃のことらしい。

1945年召集。名古屋市の第6連隊に入隊。その後浜松市に派遣され、塹壕掘りを行う。終戦により除隊となり、叔父上原正吉・小枝夫妻を頼って帰京し、大学入学を果たした。上原家に下宿し、大学に通学しながら大正製薬で働く。

妻の栞は上原家の娘で親戚筋にあたる。事実上養父母であった上原正吉・小夜夫妻の存在もあり、家では「かかあ天下」であったという。叔母夫妻や妻の影響力が強く、「女系家族」であったことも県政に長女が介入するに至る素地を作ったとされる。

春日部市の屋敷は叔母夫妻から貰ったと噂される。

死に至るまで実母とは再会しておらず、母の消息は不明。母親への思いは強く、知事在任中、記者会見において「(母は)こんなよい子(自分)を残して家を出たことを後悔しているだろう」と目を潤ませながら語ったことがある。

鷹揚に構えていることが多く、視察先で子供に無邪気に話しかけるなど、温厚な人柄であった。実際は資産家であるが、少年時代の苦労もあり、庶民派であることにこだわりを見せていた。>『ウィキペディア』
2008・10・07
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