2008年10月23日

◆盲目で死んだ北原白秋

渡部 亮次郎

北原白秋は広辞苑(岩波書店)では福岡県柳川生まれの詩人・歌人と出ているが、『ウィキペディア』だと1885年1月25日、熊本の南関に生まれ、まもなく福岡の柳川にある家に帰る、とある。

その縁だろう、数多く作詞した校歌の中に熊本県南関町立南関第一小学校の校歌がある。独身の頃、隣家の戸籍上は人妻だった女性と関係し、当時は存在した姦通罪で訴えられている。

その人俊子と結婚した所為か、お堅いNHKでもラジオ深夜便で2008年10月21日に「作品集」を放送していたが、白秋の父母と俊子との折合いが悪く、ついに離婚に至っている。

また1937年、糖尿病の合併症たる腎臓病により眼底出血を引きおこし視力はほとんど失われたが、さらに歌作に没頭した。世界初のインスリンによる糖尿病の治療は1922年、カナダで行なわれたが日本ではまだ普及していなかった。

わが師・園田直(外相、厚相、官房長官)と同じ死に方。ただし園田は人工透析を拒否し「自殺」のような死に方。それでも70歳、注射を早くに始めていれば100も夢ではなかったのに。

白秋の頃は戦争中でもあって腎臓病に対する人工透析は全く行なわれておらず、天才詩人も1942(昭和17)年、11月2日逝去。享年わずか57。墓所は多磨霊園(東京都府中市)にある。

きたはら はくしゅうは1885年(明治18年)1月25日に生まれた。父・長太郎、母・シケ。本名は北原 隆吉(きたはら りゅうきち)。

詩、童謡、短歌以外にも、新民謡(「松島音頭」・「ちゃっきり節」等)の分野にも傑作を残している。生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表するなど、日本を代表する詩人である。

北原家は江戸時代以来栄えた商家で、白秋が生まれた当時は主に酒造を業としていた。1887年、弟鉄雄が生まれる。

1891年、矢留尋常小学校入学。1897年、柳河高等小学校より県立伝習館中学(現福岡県立伝習館高等学校)に進むも、1899年には成績下落のため落第。

このころより詩歌に熱中し、雑誌「文庫」「明星」などを濫読する。ことに明星派に傾倒したようだ。1901年、大火によって北原家の酒倉が全焼し、以降家産が傾きはじめる。その後、倒産。

白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年はじめて「白秋」の号を用いる。1904年、長詩『林下の黙想』が河井酔茗の称揚するところとなり、「文庫」4月号に掲載。

感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるようになる。

1910年、隣家にいた松下俊子と恋におちたが、俊子は夫と別居中の人妻だった。2人は夫から姦通罪により告訴され、人気詩人白秋の名声はスキャンダルによって地に堕ちた。俊子、章子、菊子と生涯3度の結婚。

{作品}

(詩集)邪宗門 思ひ出 東京景物詩及其他(第3版の刊行の際に『雪と花火』に改題) 真珠抄 白金之独楽 畑の祭 水墨集 海豹と雲 新頌 

(歌集)桐の花 雲母集 黒檜 牡丹の木 白南風 (句集)竹林清興 (木俣修責任編集) (童謡集)からたちの花 トンボの眼玉

(童謡・作詞)ゆりかごのうた 砂山 からたちの花 この道 ペチカ あわて床屋 待ちぼうけ 城ヶ島の雨 伏見軍令部総長宮を讃え奉る

万歳ヒットラー・ユーゲント ハワイ大海戦 海道東征 福島県福島市歌 東京都八王子市歌 愛知県岡崎市歌 ちゃっきり節 多摩川音頭 白洋舎の歌

(校歌・応援歌)東京大学の歌(準校歌)運動会歌「大空と」など多数。作曲は多くが山田耕筰。

(著書)白秋詩抄 岩波文庫 白秋抒情詩抄 岩波文庫 白秋愛唱歌集 岩波文庫 北原白秋歌集 岩波文庫     2008・10・21
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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