2008年12月24日

◆百花斉放 百家争鳴で一網打尽

          渡部亮次郎

2008年12月10日、中国の一党独裁中止を要求する08憲章が発表され、呼びかけ人は直ちに拘束された。それでも同調の署名者は何百人に達したと報じられたが、大した騒動にはなっていない。

現地では当局がニュースサイトの閉鎖に乗り出したと噂されているが、産経新聞中国総局長の伊藤正氏は「中国指導部は、憲章のネット情報をほとんど規制しておらず、一党独裁を揺るがすことはないと踏んでいるようだ」と報じている(19日)。

かつては当局に刃向かった学生たちも今回は温和しいようだ。そこで思い出すのが「百花斉放 百家争鳴」の罠だ。今から半世紀前の1956年4月25日、中国共産党は「百家斉放 百家争鳴」という新たな政治運動を開始した。

この運動は、文学、芸術、科学技術に従事する者たちの独立した思想の自由、弁論の自由、創作や批評の自由、意見を発表する自由、自らの意見を堅持することなどである。

ところがインテリたちは罠を感じて反応しなかった。そこで毛沢東は1957年2月、党外人士や知識人が積極的な批判を歓迎すると表明した。

毛沢東や人民日報からは「如何なる幹部であろうと、如何なる政府であろうと、その欠点や誤りについて批判を受けるべきである」
「言う者に罪無し」「党外人士はもっと大胆に党の欠点を暴きだしてほしい。党は党外人士を粛清しようとは決して思ってはいない」
という発言が飛び出し、知識人を大いに刺激した。

民主主義国家では当たり前のことだが、共産党独裁の中国では現在でも容認されない画期的な政策であった。

こうして1957年5月から熾烈で容赦ない意見が一斉に提出されるようになった。中共による独裁が批判される一方で、儲安平は全ての分野に党員を配置する党天下を痛烈に批判した。批判の対象は毛沢東と周恩来にまで広がった。

1957年6月8日、毛沢東「組織的な力で右派分子の狂気じみた攻撃に反撃せよ」という指示を出し、『人民日報』は社説で「右派への容赦なき批判」をよびかけた。反右派闘争の発動である。中共はただちに全国各地で右派分子の取り締まりを始めた。

もともと組織の基盤が弱い党外人士はたちまち壊滅状態に陥った。1957年末までになんと55万2877人が右派分子という無実の罪を着せられた。集団大量虐殺は発生しなかったものの、彼らはみな市民権を剥奪され、辺地での強制労働に駆り出され、生き地獄を経験することとなった。

集団虐殺がなかったとはいっても、右派分子と断罪された人々が名誉を回復するには、改革解放が始まる20年後まで待たなければならなかった。生きて名誉回復ができたのは20数万人に過ぎなかった。残りの約30万人は中国共産党によって生命を奪われたと言ってもいいであろう。また、1980年の時点で最終的に90人の右派分子が名誉を回復することができなかった。

毛沢東自身は1958年5月8日の会議で述べている。「秦の始皇帝が(焚書坑儒で)何をした?彼は460人を処分したに過ぎない。私は始皇帝の数百倍の知識人を処分したのだ。私のことを始皇帝みたいだと言って罵るのでは不十分なのだよ」と言って自ら大笑いしたという。
08憲章ではしゃいでいると一網打尽が待っている、と感じているインテリは多いだろう。2008・12・23
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