2008年12月28日

◆トウ小平に贈られた高級車

渡部亮次郎

<12月5日発行の共産党中央宣伝部の機関誌「半月談」は「1978年にケ(トウ)小平氏は日本から何を学んだのか」と題する記事を掲載した。同年10月の訪日で新幹線に初めて乗り、松下電器産業や新日本製鉄などを見学したケ小平氏が日本の発展ぶりに大きな刺激を受けたことを詳しく紹介、「この経験は後の中国の近代化構想の中で大いに参考となったに違いない」と論評した。

また、23日付の中国紙「中国青年報」は「日本がなければ、改革・開放は大きく異なっていた」とするコラムの中で「1979年以来、日本は中国の最大の援助国となり、総額2000億元(約2兆6000億円)以上を提供し、中国が受け取った援助額全体の67%を占める」と紹介。

「2002年までに日本は1万2000人の専門家を中国に派遣し、農村開発などの分野で大きな役割を果たした」と指摘した。北京紙「新京報」なども最近、同様の内容の記事を掲載している。

これまでの中国メディアの日本報道といえば、歴史認識や領土問題などで日本を批判し、旧日本兵の残虐行為を強調するものが目立ち、戦後の日本を客観的に伝える記事は少なかった。このため多くの中国人は中国の近代化に日本が資金面や技術面で大きな役割を果たしたことをまったく知らない。

偏った日本報道や愛国主義教育の結果、胡政権が推進する日本重視路線は国内世論から強い抵抗を受けているのが実情だ。

今回の日本報道の変化について、中国の日中問題専門家は「戦後の日中関係史に光を当てることで日本の良いところを伝え、若者の反日感情をやわらげる世論対策の意味がある」と指摘する。

また、「中国が政府開発援助(ODA)に感謝していないことが日本世論の対中感情悪化の原因の一つになっているので、今回の一連の報道は日本の国民感情に対する配慮も込められている」と分析している。>産経ニュース2008.12.25 21:17

1978年10月、ケ(トウ)小平氏が、初来日した時、肩書きは中国政府の「副首相」に過ぎなかった。3度目の失脚から奇跡の復活を遂げてまだ1年未満だった。しかし実力は既に華国鋒主席を凌ぎ実力No.1だった。

当時、日本は福田赳夫内閣。福田首相は2年前、幹事長大平正芳氏に対し「2年後には大平にバトンタッチする」との蜜約書を渡していたが、これを勝手に「反故」にし、大平氏と力で争う事を決意していた。

トウ副首相はそんな事情を知る由もない。私は当時、外務大臣園田直(そのだ すなお)の秘書官だったが、トウ一行接遇を横目に、自民党総裁選の行方に最大の関心を払っていた。首相交代ともなれば園田の政治的立場が変わるからだ。福田総理は『密約』反故で総裁再選後は園田氏を外相留任か通産大臣への横滑りをエサに密約反故への加担を誘ってきていた。中には幹事長就任を言ってくる側近もいた。

海千山千といわれた園田氏だったが、密約立会人としては、約束遵守の決意は固かった。さすが元特攻隊員だった。

トウ氏は歓迎の晩餐会や天皇陛下の謁見を滞りなくこなしながら、敗戦日本の経済復興の実態の見学を早くしたがった。実際、昭和天皇の謁見の時は胸を張って入って行ったったが、謁見の後はうなだれて小さくなって出てきた。会談中、日本の工業発展に伴う大気汚染など公害問題ばかりを話題にしようとしたらしい。

そうした中、某大手自動車メーカーが通産省(当時)ルートを通じてツ氏に最高級乗用車1台を贈りたいと私に打診を依頼してきた。

毛時代はホテルのボーイでさえチップを拒否するように言われている国。さてどうかなと思ったが、あにはからんや二つ返事で「是非いただきます」さっさと船での持ち帰りを早々に手配する始末。

福田首相からの土産はたった85万円の陶器だったが、1000万円の乗用車をこともなげに受け取る共産主義者。私はそれまで見聞してきた中国幹部と全く異質なものをトウ氏から感じ取った。「とんでもない事を平然とやってのけられる太い神経を持っている」。

トウ氏はやがて一行と共に新日鉄や松下電器の視察を終え、東海道新幹線に乗車、大阪に向かった。日本側記者団に感想求められ、たった一言「鞭で首を打たれ続けるようだった」。その意味を追求した記者はいなかったようだが。敗戦国ですらこれだけの経済発展を可能にしたもの、それが資本主義体制による自由競争にあることを痛感したのだと私は受け取った。

果たせるかなトウ氏は、帰国直後から経済の改革・開放の必要性を強調、遂に暮までには党全体の了承を取り付けたのだった。経済の改革とはすなわち資本主義と自由競争体制の取り入れであり、開放とは外国資本受け入れの事である。ここから中国は「トウ小平」時代の幕をあけたのである。

自民党の総裁選挙は大方の予想に反して福田氏が惨敗、下野。大平内閣に園田外相は再任となり、中国への政府開発援助(ODA)供与開始に踏み切った。しかし、その事実を中国は国民に対して絶対明らかにしなかった。経済建設が宿敵日本の「お蔭」とは口が裂けても言いたくなかったのだ。

だが、生前のトウ小平は口では一言も言わなかったが、日本人あるいは技術を極めて高く評価してていた。というのは、日本から帰って暫くしてある秘密ルートを通じて園田外相の下に1枚のレントゲン写真が届けられた。「可能性を医学界に打診して欲しい」の一言だけだったが、脊髄のぷっつりと切断されたその写真が、文革中、北京大学の4階から転落して身体障害者になったトウ氏長男のそれである事は明らかだった。

切れた脊髄が日本でなら繋がるかも知れないと「父トウ小平」は考えたのだ。勿論日本の医学界とて下す手立てはなかったわけだが、あれから丁度30年。「日本なくして新中国は無い」とトウ氏は思っていたはずだと回想することしきりなのである。

じつはこれに先立って田中角栄首相に同行して北京で日中国交正常化に立ち会った1972年。「日本の敗戦直後よりも50年は遅れている」と感じた中国が、たった30年で今や日本に経済面で牙をむくようになった。

ここで改革・開放体制から日本を否定する事は絶対に不可能なのだ。それを弁えない限り中国の正しい発展はあり得ない。中国メディアにも日本との関係を科学的に考えられる御仁がようやく出てきたようである。2008・12・27


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