2009年01月13日

◆離党・脱党の利害得失

                 渡部亮次郎

斯界再編成は焦眉の急になっているが、それよりも先に自民党をみずから離党しようとパフォーマンスを繰り返しているのが、渡辺喜美代議士である。

河野洋平は総理大臣になれなかった唯一の自民党総裁の経歴を残して引退するが、この原因は離党の傷である。田中角栄内閣に砂を掛けて新自由クラブを結成。田中を窮地に追い込みはしたが、政界浄化も何も達成できないまま恥ずかしいことに復党した。

脱党された時の田中の恨みは田中の子分全員に残った。河野はその恨みを纏った為、以後、能力の無さもあったが、どんな地位を与えられても政治史に残るべき実績は何も挙げられなかった。

ましたその仲間たち。どこに消えたかよほど大きな天眼鏡でも捜せない

私が大臣秘書官として仕えた園田直(そのだ すなお)も若い頃、日米安全保障条約の批准案に反対票を投ずるため敢えて国民民主党(当時)を離党したことが、後々まで跡を曳き、苦労した。喜美も「後がたいへんだろうな」と心配してしまう。

性格の激しさで似ていた父親美智雄(ミッチー)ですら、生前、総理大臣の椅子を餌に小沢一郎から誘われても踏み切れなかったのが「脱党」だった。離党や脱党とはそれくらい政治家の信用を左右する一大事なのである

ミッチーが加わる前の河野一郎(洋平の父)も派閥ごと岸信介首相反対の新党結成を企図したことがあったが、派閥要員たちがその後の政界孤立を恐れて震え上がり成就できなかった。

後に自民党内閣(福田赳、大平、鈴木)の外務大臣を務め「日米安保条約こそは日本外交の基軸」との答弁を繰り返さざるを得なかった園田だが、時折は昔の傷をマスコミにえぐられた。

しかも安保条約反対の理由は「再軍備の不可能」だったにもかかわらず、日米軍事同盟への反対者と決め付けられたこともあった。反対票投入に先立って理由鮮明の記者会見などパフォーマンスをしなかったため「証拠」が残らず反対理由を勝手に解釈されることとなったのだ。

手許に『実録 政界二十五年』宮崎吉政著(読売新聞社刊)という1冊がある。読売新聞政治記者だった宮崎氏がまとめたものだが、当時、毒舌評論で名を馳せた大宅壮一が序文をよせているという「お墨つき」だ。

これによると日米安保条約に対して国民民主党(野党)の中には反対者が17人いると言われた。「青年将校」中曽根康弘は総務会でぶちあげた
「このような屈辱的条約に、われわれは責任を分担できない。アメリカは無差別爆撃で、日本国民にたいへんな損害を与えた。われわれはアメリカに賠償をようきゅうすべきだ」

園田によるとその中曽根に従いて行ったのだが気がついたら先頭がいなくなっていた。中曽根を説得するのに三木武夫幹事長は「将来、きみが総理大臣になるときにキズになる」と口説いたそうだ。

このとき離党したのは園田のほか石田一松、小林信一。小林は社会党入り。石田、園田の2人は翌年結成された改進党に参加して復党した形とはなった。

しかし、園田にとって、それは苦難の始まりに過ぎなかった。なぜならその後結成された自由民主党は、日米軍事同盟の牙城の如き存在だったから、園田は日米安保に「反対した」分子と札が貼られ入閣が酷く遅れた。厚生大臣として初入閣した時は当選「9年生」だった。

しかも自民党政権の恥部であった水俣や新潟の水銀病をはじめて公害病と認定し、財界の総反発を招いた。これは離党や脱党の不利益ではなかったが、以後十年は再入閣がなかった。

園田に能力があったか無かったかはわからないが、日米安保条約批准に際して早くも「風見鶏」を発揮した中曽根は総理大臣にのぼりつめ大勲位に叙されて未だ健在である。

こうして振り返ってみても離党、脱党による政治家のプラスとは殆ど考えられない。むしろ中曽根をみれば脱党しなかったことが政権獲得のカギであったといえる。園田の息子は新党魁に走ったから未だに入閣できていない。ヘンなDNAである。文中敬称略。
2009・01・11


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