2009年03月08日

◆朴正煕政治の再評価

渡部 亮次郎

朴正煕(パク・チョンヒ)大韓民国第5〜9代大統領 任期:1963年10月15日―1979年10月26日。会ったことは無いが、韓国を今日有らしめた最高の貢献者と評価している。

後に私が秘書官として仕えた園田直氏は公害病初認定後の不遇時代、河野一郎派時代から親しかった右翼の児玉誉士夫氏に誘われて朴大統領と会談したことがある。帰国して語っていた。「オレの目前で衛兵に自らビンタを食らわすんだよ、驚いたね」とやゝ軽蔑して明かした。

青瓦台の地下を案内した時、トイレの戸が開け放しになっていた。怪しからんとばかり大統領がいきなり衛兵を殴ったと言うのだ。

「軍隊時代、ワシは部下にビンタを食らわした事が無かったので驚いた。ありゃ、心底、日本軍人だね」。

2009年現在の大韓民国では政治的な事情もあり評価は各人の立場においてまちまちではあるが、一般論としては、政治面では目的の為には不当な手段も厭わないものの、私人としては清廉であると評価されつつある。

朴正煕(パク・チョンヒ、1917年11月14日―1979年10月26日)は、大韓民国の軍人・政治家。クーデターで政権を奪取して第5〜9代大統領を務め、軍事独裁・権威主義体制を築いた。号は「中樹」(チュンス)。

日本語読みは「ぼく・せいき」。日本名は高木正雄(たかぎ まさお)(-1945年)。日本では1984年の全斗煥大統領訪日を契機に韓国人人名の現地読み化が行われるようになり、漢字表記のままで「パク・チョンヒ」と韓国語読みされるのが一般的である。ハンナラ党前代表の朴槿恵は長女。

釜山・馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26日、側近のKCIA部長金載圭によって射殺された(10・26事件)。享年61。国葬が執り行われ、遺体は国立墓地顕忠院に葬られている。なお、朴正煕は1985年には自ら下野すると側近に話していたという。

朴正煕の死後、早くから目をかけてきた軍人大統領が2代続き、その開発独裁路線を継承し強圧的な独裁政治は批判され続けていた。

その後、民主化の達成感によって朴批判運動が退潮しはじめたこと、生活が豊かになったと国民が感じ始めたことで、独裁下に於いて実現した「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展や治安の良さを再評価する動きが出て来た。

特に政敵であった金大中が、大統領選の際、保守票を取り込むために朴正煕時代の経済発展を評価するに至って、韓国近代化の礎を築いたという声が高まった。

独裁的でありながら彼の私生活はいたって質素、潔癖であった。ネポティズム(縁故採用)も嫌ったことは事実であり、保守派を中心に彼の治世を懐かしむ声さえ存在し、韓国歴代大統領のうち一番人気があるといわれる。

しかし、彼が終始民主化運動を徹底的に弾圧し、終身大統領として自身の権力を死ぬまで保持しようとしたこと、朴政権下での拷問、不当逮捕を含む強権政治が大統領の死後も2代の軍事政権に引き継がれ韓国の民主化を阻んだことも事実であり、内政における自由化が遅れる原因となった。

終生のライバルであった北朝鮮の金日成に体制競争を挑み決定的な経済格差を付け、経済格差によって南北の力関係が大きく変化したことは東アジア地域の国際関係にも変化をもたらした。

経済パフォーマンスを体制の正統性の根拠としてアピールしたのはむしろ朴正煕登場以前の北朝鮮であり、そのため北朝鮮は経済面のみならず人民に対して支配を正当化するうえでも慢性的な苦境に陥った。

批判的な見地からは、独裁者としての批判に加えて朴正煕を植民地支配における対日協力者・親日派とする意見もあり、実際親日人名辞典編纂委員会の名簿に記載された。

2004年に日本植民地統治時代の対日協力者を解明するための日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法が可決され、その時代に日本の陸軍士官学校で学び、満州国国軍に参加していた彼もそれに含まれる(最終的には、保守派の反対を受け彼は該当しないように配慮されることとなる)という一幕もあった。

朴大統領をはじめ韓国の軍事政権が行った開発独裁政治に、大日本帝国の韓国植民地支配が手法、理念その他でどれだけ影響を与えていたかは歴史家によって意見がまちまちである。

日本との関係を真剣に考えていたとされ、竹島をめぐる領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めてしまえ」と発言したとも言われている。

また、ベトナム戦争への参戦については、派遣された韓国軍部隊が現地でベトコンと見なした一般市民を女性や子供も含めて大量虐殺する事件やベトナムの女性を強姦する事件、その他数々の野獣のような蛮行を起こしたことなどベトナム人の視点からすれば朴大統領はまぎれもない「侵略者の一員」であると指摘されている。

1999年にはアメリカの雑誌『TIME』で「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」に韓国人から唯一選ばれている。

酒を飲んで機嫌が良くなると、よく日本の軍歌を歌っていたと言われている。

陸英修夫人とは、仲の睦まじさを演出したが、家庭内では夫人が「青瓦台(大統領官邸)の中の野党」の役割を果たし、政治的な助言も惜しまなかった為、時々「陸‐朴戦」(韓国語では「肉薄戦」と発音が同じ)、つまり夫婦喧嘩があったという。

終生、夫人に対してはただの妻以上に尊敬し続け、もし夫人が生きていたら、政権の末期もかなり違っていたかも知れないとよく言われる。

無名の若者たちが国の近代化を推し進めた明治維新を「明治維新の志士を見習いたい」と称賛していた。特に、中心人物の一人である西郷隆盛を尊敬していた。

西郷が語った「子孫のために美田を残さず」という言葉を好んで使っていた事から、前述の浦項製鉄所や石油化学工場の建設の推進など、経済政策やメンタリティ等あらゆる部分で日本の影響を色濃く受けていた事が伺える。

日本の英文学家・劇作家で保守思想家としても評価の高い福田恆存と親交を結んだ。福田は朴の暗殺を聞き追悼文「孤獨の人、朴正煕」を書いている。その中で福田は、朴と昼食を共にした時を回想し、以下のように書いている。

「故人に對して、そしてまた一國の元首に對して、頗る禮を缺いた話だが、私は敢へて書く、正直、私はその粗食に驚いた、オムレツは中まで硬く、表面がまだらに焦げてゐる。

もし日本のホテルだつたら、「これがオムレツか」と私は文句を言つたであらう。が、それを平氣で口にしてゐる青瓦臺の「獨裁者」をまじまじと眺め(後略)」

他の大統領と同様に、よく教会に通っていた。 自身の政治家としての潔白さを証明するため、親戚のソウルへの立ち入りを禁じていたという。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008・08・31



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