2009年04月07日

◆ソ連外相にすき焼き

渡部 亮次郎

(再掲)1978年1月、福田内閣の園田直外務大臣は、就任後初の外遊先をモスクワに決め、 1月8日午前11時、JAL443便に乗り込んだ。私は真冬でもあり、現地では野菜不足の時期だと報道課長古川清さんに教えられていたから、機内の倉庫に現地日本人への土産として白菜何十キロかを積んで出発した。

それとは別に大臣と打ち合わせに来ていた駐ソビエト(元ロシア)大使重光晶大使(重光葵外相の甥)が神戸牛1頭分を予めモスクワに運びこんでいた。

1月8日夜9時、雪の張り付いたモスクワのシェレメチェボ空港に到着。翌日から「日ソ定期外相協議」がソ連側の外務省別館を会場に開始された。

1月だから氷点下20度ぐらい。首筋がチクチクと痛かった。「帽子を被って凍傷を防げ、春になったら頭が融けるぞ」と誰かから注意された。慌てて用意してきた毛皮の帽子を被った。

3日目は既に3回目の外相会談。向こうが無理難題を含む日ソ平和条約原案を突きつけてきたから、すかさずこちらもかねて用意の対案を突きつけて「ちゃら」。息づまる駆け引きだった。

しかし30分後には日本大使公邸で園田大臣主催の昼食会が開かれ、其処に日本のすき焼きが初めて登場したのである。牛肉に砂糖を絡めて葱と豆腐や春菊を醤油で煮た料理にソ連人、如何なる反応を示すか興味津々だった。非礼も忘れてせっせと撮影した。

国連大使時代は常に拒否権を行使して「ミスターニエット(反対)」と綽名されていたグルムイコ外相。おとなしい顔で、すき焼きを左利きの箸を上手に使ってパクついていたので感心した。

西欧においては決して美味であるはずのない砂糖まぶしの牛肉でも平気な表情で飲み下す、これは一種の気迫だろう。

すき焼きの語源・由来

すき焼きは江戸時代から見られる名で、鍋の代わりに農具の鋤(すき)の金属部分の上を火にかけ、魚や豆腐を焼いて食べたことから、「鋤焼(スキヤキ)」と呼ばれるようになった。確かこのことを佐藤事務秘書官は大臣に「挨拶」で言わせた。

その他、すき焼きの語源には、肉を薄く切るため「剥身(すきみ)」から「剥き焼き」となったとする説や、古くからある日本料理「杉焼(すぎやき)」からとする説、好きなものを焼くからといった説もある。

しかし、1832年の「鯨肉調味方」に「鋤焼とは、鋤のよく擦れて鮮明なるを、熾火の上に置きわたし、それに切肉をのせて焼くをいふ。鋤に限らず、鉄器のよくすれて鮮明なるを用ふべし。」とあるため、鋤の上で焼いた説が有力とされている。

江戸時代のすき焼きは、牛肉が禁止されていたため、鴨肉や猪、鹿などの肉が使われ、現在の焼肉や鉄板焼きのようなもので、関西風すき焼きにその名残をとどめる。

文明開化後、牛肉が庶民の食べ物として普及してからは、東京を中心に割り下を使うすき焼きが広まり、「牛肉鍋」や「牛鍋(うしなべ)」と言われ、やがて「牛鍋(ぎゅうなべ)」が関東では一般的な呼び名となった。全国的にすき焼きと呼ばれるようになった時期は、それほど古くないようである。

また、牛肉を用いるすき焼きが一般的となったため、「すき」に鍋物の意味を持たせ、牛肉以外の材料を用いる時は「魚すき」「鳥すき」「うどんすき」などと呼ぶようになった。

すき焼き(スキヤキ)とは、肉を浅い鉄鍋で焼いた、あるいは煮た料理。割下を用いた甘辛い味つけの料理の総称として「すき焼き風」という呼称も用いられる。牛鍋ともいう。

すき焼き(関東風)

一般的なすき焼きは薄切りにした牛肉が用いられ、葱、春菊、椎茸、豆腐などの具材(ザクと呼ぶ)が添えられる。味付けは醤油と砂糖が基本で、生卵をからめて食べる。

しゃぶしゃぶの薄切り肉は熱湯にくぐらせるだけで食べられるほど薄いが、すき焼きの薄切り肉はしゃぶしゃぶに用いる肉よりも厚いことが多
い。

日本では幕末になるまで、仏教の戒律などのため牛肉を食べることは一般には行われていなかったが、別に「すきやき」と称された料理は存在していた。

古くは寛永20年(1643年)刊行の料理書『料理物語』に「杉やき」が登場しており、これは鯛などの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮にする料理である。

さらに享和元年(1801年)の料理書『料理早指南』では、「鋤やき」は「鋤の上に右の鳥類をやく也、色かはるほどにてしょくしてよし」と記述されている。

また文化元年(1804年)の『料理談合集』や文政12年(1829年)の『鯨肉調味方』にも具体的な記述が見られ、使い古した田畑を耕す農具の鋤(すき)を火にかざして鴨などの鶏肉や、あるいは鯨肉などを加熱する一種の焼肉であったことが判る。

この魚介類の味噌煮の「杉やき」と、鳥類・魚類の焼肉という「鋤やき」という2種類の料理が、牛肉の鍋物としての「すき焼き」の起源と言われている(なお「すき身」の肉を使うことから「すき焼き」と呼ばれるようになったという説もある)。

安政6年(1859年)に横浜が開港すると居留地の外国人が牛肉を欲しがり、地方から牛肉が運ばれるようになった(神戸からと言われている)。

このような状況で文久2年(1862年)に横浜入船町で居酒屋を営んでいた伊勢熊(いせくま)が牛鍋屋を開業する。明治元年(1868年)、外国人向けに東京・芝に屠牛場ができた。

以降、東京でも牛鍋屋が流行し、以後牛食は文明開化の象徴となる。仮名垣魯文はこうした状況を『安愚楽鍋』(1871年)に描き出している。

この関東の「牛鍋」に対し、関西では先に焼いた牛肉の上から割下を張る「すき焼き」が行われおり、次第に関東でもこちらの「すき焼き」という呼称が定着していったようである。

横浜にはぶつ切り牛肉を使い、適宜、割り下を注ぎながら濃い味噌だれで炒りつけるように煮る牛鍋を供する名店がある。幕末期、開港場の横浜では牛肉の煮売り屋台があった。

イノシシのボタン鍋の転用で、味噌煮込みであったらしい。明治初期の「牛屋(ぎゅうや)」の牛鍋もこうした味噌鍋が主流であったと思われる。先述のぶつ切り牛肉の味噌鍋の店もこうした牛鍋のプロトタイプの名残りと見る事ができよう。

調理法の違い

関東と関西ではその調理法に違いが見られる。関東のすき焼きは明治に流行した牛鍋がベースになっており、だし汁に醤油・砂糖・みりん・酒などの調味料を混ぜた「割下」をあらかじめ用意しておき、これで牛肉を煮る。

関西のものは名前の通り牛肉を「焼く」料理で、焼けたところに砂糖をまぶし醤油を直接加えて味付けをし、割下は用いない。

東西の食べ方の境界線は、愛知県豊橋市にあるといわれる。現在では割下を万能調味料として売り出していることもあり、境は明確ではなくなってきている。

肉と水のでる野菜を同時に焼かない点、こんにゃくなど肉を硬くする作用をもつものをいっしょに焼かないことなど、関西風はこだわりがあるのも特徴である。

北海道や新潟県ではその昔、牛肉ではなく豚肉を使うことが一般的であった。これはかつての北海道や新潟県では牛肉が高価だったせいもあり、牛肉を食べる習慣が余りなかったためである。しかし比較的安価に牛肉が提供されるようになった現在では、牛肉を使う場合が多い。フリー百
科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照。2006・10・11

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