毛馬一三
芭蕉や一茶と並んで江戸俳諧を代表する俳人与謝蕪村の「顕彰公園」が、蕪村生誕の地・大阪市都島にこのほど完成した。筆者が本誌(2006年3月9日)にこの建設構想を寄稿してから3年が経つ。
大川(旧淀川)河畔の毛馬橋東詰め北側に造成された1.1ヘクタールの新公園内には、蕪村自筆の13句を刻んだ石碑や広々とした石畳、コンクリートづくりの休憩所、芝生や樹木に囲まれた広場などが設えてある。
特に公園入り口の鉄柵には、蕪村自作の「春風馬堤曲」の写しや自画像8枚のパネルなどを飾り、出奔後、生涯帰省することのなかった生誕地への郷愁の強さを示すことで、蕪村が大阪と繋がりの深い俳聖であることを説明している。
ところが3年前の新公園の設計段階では、公園の一隅に「東屋」を建て、ここに大阪に皆無に等しい蕪村資料を収集展示すると共に、俳句愛好家の発句例会の場所にする計画だった。だが完成した公園にはその「東屋」の姿はない。
だからその「東屋」で「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」「なの花や月は東に日は西に」など、蕪村自筆の名句に直に接しながら、地元輩出の蕪村に誇りを感じつつ、発句例会を定期的に開催したいと願う俳諧同好会の人たちの夢も消えた。
早い話、江戸文化の俳諧の世界に浸る文化施設のイメージとはかけ離れ、むしろ石碑を鏤めて見栄えだけを強調し、石畳の中の憩いの場で一息入れるだけの、典型的な都市型公園になってしまった感は拭えない。
つまり俳聖の顕彰公園であればこそ、17字の使い回しに苦吟しながら発句する、古風な屋根付の空間がどうして設営されなかったのだろうか。俳諧文化顕彰を兼ねた新公園から「東屋」計画が失われたことには、失望を禁じ得ない。
さて、前にも触れたが、俳人与謝蕪村は、享保元年(1716)摂津国東成郡毛馬村(現都島区毛馬町)に生まれた。家は裕福な農家だったが、幼少の頃両親を亡くした事で心身に苦難の日々を送ことになり、20歳の時意を決して出奔、江戸へ出た。
江戸では、早野巴人の弟子として俳諧を学び、師が没した26歳の時から芭蕉の世界を慕って奧羽を放浪。宝暦元年(1751)36歳で京に上って俳諧に勤しむ一方、南宋画家として池大雅と並ぶ名声を得るまでに至る。
天明3年12月25日(1783)、京で68歳の生涯を閉じたが、出奔してからは故郷毛馬村には帰っていない。
だから生誕地への想いは強かったようで、62歳になった時発表した「春風馬堤曲」中で、「淀川をわたり毛馬の堤を通り過ぎる時、薮入りの少女に出会う」というフィクションを綴っている。生誕地への郷愁を同地を訪れる少女に託した筋書きで、「薮入りの寝るやひとりの親の側(そば)」と句を残している。
蕪村の郷愁はそれほど強かったのに、大阪人はずっと無関心。いまだに大阪には蕪村に関する伝承文献は殆ど無く、生誕地に関する資料すら皆無。ましてや京都や東京の収集家などから資料を集める努力もせず、結果的にこれが大阪での「蕪村資料館」不在の原因に結びついているといっていい。
だとすれば今回2億5000万円もつぎ込んで「蕪村公園」を造営した機会に、当初の計画通り「東屋」を作り、「蕪村資料館」と兼務運営させることで、過去の文化行政欠落を猛省し、以後大阪文化の継承に果敢に挑む意欲を示すべきだったのではないか。
大阪市は「蕪村公園」の完成日時を4月1日だしているが、その完成の事実と日時を公表しておらず、オープンセレモニーも全く行っていない。勿論市のホームページにもそのことを掲載していない。
平松市長は、新設した「与謝蕪村顕彰公園」で地元住民の他、俳諧同好会の人々を集めて改めて同公園オープンセレモニーを開催すべきであろう。
「蕪村顕彰公園」の完成が、小中学生の国語・歴史教育に役立つことは言うまでも無く、蕪村俳諧に魅せられた全国の蕪村ファンを招く集客にも繋げられると思われるのだが。
(了)2009.04.16
■本稿は、全国版メルマガ「頂門の一針」1515号(09年4月16日)に掲載されました。
<1515号目次>
・小沢一郎のルーツ:渡部亮次郎
・スイスの秘密口座から2兆円脱出:宮崎正弘
・蕪村生誕の大阪に「顕彰公園」:毛馬一三
・プーチン親分、お土産は?:平井修一
・緒方ありせば:古澤 襄
・話 の 耳 袋
・反 響
・身 辺 雑 記
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2009年04月16日
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