2009年04月16日

◆小沢一郎のルーツ


渡部 亮次郎

NHK記者として1960年以来4年間を岩手県盛岡市(県庁所在地)に在勤。主に政治を担当。何のことは無い衆参院議員、知事選挙の票読みに明け暮れた。

この間、東京から選挙区入りする政治家とは殆ど顔見知りになったが、小沢佐重喜(おざわ さえき)にだけは会う機会がなかった。彼のライバアルだった椎名悦三郎や志賀健次郎とは昵懇にねがったぐらいだが。

私が政治記者活動の舞台を東京に移したのは東京オリムピックのあった1964年。河野派や参議院担当と慌しく送っている間に「日米安保改定実現に大きな役割を果たした」佐重喜は昭和43(1968)年5月8日、心不全のため東京慈恵会医大病院で死去してしまった。享年70。

当時、東京都内の高校から慶応大学を経て日本大学大学院で司法試験に備えていた長男一郎が後継者となり、はや当選13回、民主党代表にあること、ご承知のとおり。

だから岩手県や小澤周辺の事は他人(ひと)よりは多少詳しいはずだったのに、先ごろの秋田県知事選挙で小沢勢力が敗北した事に関する評論で小澤(南部藩)というミスを犯してしまった。小澤の選挙区は旧伊達(だて)藩である。

ところで戸籍上、一郎には異母姉妹が2人居ることを知っている人は今では少ないだろう。佐重喜が妻・みち(旧姓荒木)に生ませた子供は長男一郎だけ。

佐重喜の経歴のどこにも離婚の記録はないから娘・スミ子、則子(いずれも養女として入籍)は 佐重喜が外で作った子である(松田賢弥著『闇将軍 野中広務と小沢一郎の正体』194-195頁)。

後に述べる如く小澤佐重喜は苦学力行の人だったが、「妾(めかけ)囲うは男の甲斐性」と言われた戦前。「我も一つ」と頑張ったのだろうが、私の知る限りでは、これが選挙に影響したことは無かった。

小澤佐重喜は吉田茂が政界にある間は吉田側近でありつづけたが、吉田引退後は日本商工会議所会頭から政界入りして総理総裁を目指した藤山愛一郎の派閥にいた。

明治31(1898)年11月25日、岩手県胆沢郡水沢町(のちに水沢市を経て、現:奥州市)の貧しい小作農家(父・徳太郎母・トメ )に生まれる。

水沢は明治4年の廃藩置県前は、伊達(だて)藩(現在は宮城県)に所属した。

佐重喜は経済的に恵まれなかったため小学校5年で退学。隣県の仙台市へ行き鍛冶屋、大工の弟子入りした経験を持つ。後年、その押しの強さから、「闘牛」の異名をとったのはこの時代の苦労が肥やしになったのだろう。

その後、大正12(1923)年、日本大学法学部夜間部を卒業し、同年中に弁護士試験に合格。翌大正13(1924)年3月、東京市下谷区御徒町に弁護士事務所を開業

昭和4年(1929)年3月、東京市会議員に当選
昭和11(1936)年5月、東京府会議員に当選
昭和17(1942)年4月13日、長男一郎誕生。自宅も台東区御徒町だった。

だが佐重喜は一郎を戦局の悪化に伴う「疎開」のようにして妻と共に郷里水沢に帰し、一郎は3歳から14歳まで水沢で育った。一郎の口下手は岩手訛の劣等感から来ているようだ。

さて佐重喜である。戦後の昭和21(1946)年、戦後初の総選挙である第22回衆議院議員総選挙に旧岩手2区から立候補し当選する。以後、当選通算10回。

自由党に所属し、吉田茂に重用される。第2次吉田茂内閣の運輸大臣として初入閣。この時、首相である吉田が昭和天皇に閣僚名簿を奏上した際誤って名前を「さじゅうき」と読み上げたところ、昭和天皇から誤りを指摘されたという一幕が伝わっている。

第3次吉田茂内閣の逓信大臣、初代郵年政大臣兼初代電気通信大臣、第5次吉田茂内閣の建設大臣を歴任する。

昭和30(1955)年、保守合同・自由民主党に参加。議運委員長の経験から社会党との調整力に長けたことから、岸信介から日米安全保障条約に関する特別委員長に指名され、川島正次郎幹事長らと共に安保改定を実現した。

昭和35(1960)年、第2次池田内閣で行政管理庁長官、北海道開発庁長官に就任したのが最期。長年、小選挙区制の導入を唱え、その遺志は息子の小沢一郎に引き継がれた形で一郎が実現した。

衆議院議院運営委員長をしたのは昭和25(1950)年7月から26(1951)年12月までだったが、参議院で衆議院法案が4回否決(内3回は参議院修正案)された際、参議院の議決を否定し衆議院案の再可決という形で法案を成立させる道筋を作った。

56年後の平成19(2007)年に、息子の小沢一郎が第一野党党首として参院選で参議院野党過半数を獲得し、衆議院で法案再可決権である3分の2以上の議席を持つ与党に対峙することとなった。

後年、2007年以降で、民主党は参議院が直近の民意であることから与党による衆議院の再議決を牽制しているが、小沢一郎民主党代表の父である佐重喜が衆院議運委員長時代に行った衆議院の再可決4回は参院選が直近の選挙であった(衆院選1949年1月・参院選1950年6月)。

昭和43年(1968年)5月8日、心不全のため東京慈恵会医大病院で死去  叙正三位・叙勲一等・授旭日大綬章。心臓病は小澤家の遺伝?(文中敬称略)出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・04・15

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