2009年05月02日
◆中国残留孤児問題の総括
石岡 荘十
山形県の貧農に生まれ、元中国大陸の憲兵、元新聞記者、そして退職後は残留孤児の救済に賭けた菅原幸助氏が、老骨に鞭打って1冊の本を上梓した。「中国残留孤児裁判」(平原社刊)である。その帯にはこうある。
「国家とは何か、戦争とは何か。満州の曠野に遺棄された中国残留孤児らの人間の尊厳と国の謝罪を求めた裁判闘争の全記録」
著者・菅原幸助氏と孤児問題については、これまで折りに触れ、本メルマガで報告した。
http://www.melma.com/backnumber_108241_2280065/ (05/09/11)
http://www.melma.com/backnumber_108241_3526938/ (07/01/31)
そのほか。
本書はその総括である。
少しだけ繰り返すと、菅原氏は大正14年生まれ。つまり彼の年齢は昭和で数える年数そのままの老人である。
東北のどこにでもある小さな寒村から、14歳のとき満蒙開拓青少年義勇軍に自ら志願して満州へ。20歳になるまでの間にいろいろあって終戦時には関東軍憲兵となっていた。
与えられた最後の任務は、高位高官の家族を避難列車に乗せて日本に送り届けることだった。
終戦からひと月あと、小串(山口県豊浦町)に上陸、無事任務を果たした。しかし、その途中、蹴散らし、置き去りにした多くの開拓民の子どもたちが、中国残留孤児となり、日本鬼子(リーベンクイズ)とののしられ迫害されながら、異国の地で懸命に生き抜いた記録を、図書館で発見する。
もしかしたら、「あのとき蹴散らした開拓民、列車を追いかけ助けを求めたあの子どもかもしれない---」
この日から、菅原氏の「贖罪」の活動が始まった。孤児の肉親探し、帰国した孤児の生活支援、身元が判明しても引き受けを拒否する肉親に代わって身元引受人にもなる。残留孤児の多くが「菅原」姓を名乗っているのは、彼が、身元が確定できなかった家族の身元引受人となったためだ。
また一連の「中国残留孤児国家賠償請求訴訟」の法廷では、彼が見聞きした、国家が棄てた国民、棄民の惨状を証言している。
さて本書は、1945年8月9日、ソ連軍が満蒙国境を越えて開拓民を襲ったその日、何が起こったか。軍は、とっとと退散(敗走)して、残された女子供、年寄りが集団自決し、ソ連兵に陵辱された様子を、目撃者(孤児たち)の菅原氏に対する証言で生々しく再現してみせるところから始まる。そして、裁判、政治決着。
帯にいうように、国家が異国に棄民した孤児たちに、国がどう償ったか。国家にとって国民とはどのような存在だったかを淡々と事実の積み重ねの中で告発している。
日本の中国進出が侵略だったかどうか、そんな議論の前に、日本人である孤児一人ひとりを国家はどう扱ったか、人間としての尊厳を問うている。
菅原氏はパソコンが出来ない。すべて手書きの原稿だった。380枚。新聞記者の経験が生きた。淡々と事実を積み上げて感動を呼ぶ。ややこしい裁判経過も新聞記事を読んでいるようにすっと入ってくる。残留孤児問題でこれほど客観的にまとめて書き残したものはほかに見ない。記録文学とでもいえるドキュメンタリー、歴史的資料ともいえるものだ。
筆者が記者として駆け出しの頃、札幌で一緒にサツ回りをした。その後、彼が朝日新聞の鎌倉支局長をしているころ、昔の仲間が集まって徹夜マージャンをしたこともあった。
お祝いの電話をしたら、「米寿までは生きるぞ」と意気軒昂だった。近々、上京の機会があるようなので、一杯やろうと約束した。
20090421
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