2009年05月07日

◆折角の特ダネを他社に提供

大谷 英彦

NHKに入社,初任地小倉でサツまわり1年の後、昭和37年に門司の海担当となった。

最大任務は第7管区海上保安本部の取材。

当時、韓国は李承晩ラインなるものを勝手に設け、侵犯を理由に日本漁船を拿捕、乗組員を抑留し船体を没収する。なかには性能優秀な新造船だったため、韓国が警備艇に改造、多数の日本漁船を拿捕した悪辣な例もあった。

海上保安庁は、この拿捕を妨害阻止するため、全国の海上保安部から交代で巡視船を派遣し韓国警備艇と攻防を展開した。

この攻防戦は遠い海の上のことなので取材といっても現場はない。巡視船からの無線報告だけが頼り。それが何時入ってくるか分からないから各社そろって記者室から動けないといった毎日だった。

とはいえ極秘事項だったが、7管本部は韓国警備艇の暗号無線を傍受解読していた。この解読で警備艇の位置、進路をつかみ、日本漁船に警報を流す。

漁場を碁盤目に分け「農林漁区何号でアジ何トン、サバ何トン・・」と漁獲高報告の中に「警備艇何号はドドドコから何方向に向かっている」という警報を埋め込んで日本漁船に伝えていた。

担当の警備2課室は厳重立ち入り禁止。奥には裏地赤の黒い暗幕を張っていた。が、そこは記者商売。コネをつけ「今日は危ない」「今夜は大丈夫」という情報をとっていた。これがないと夜、安心して呑みに行けない。

昭和37年8月2日。その日は「大丈夫の日」だった。しばらくご無沙汰だからと思い、門司税関ビルの薄暗い廊下を門司検疫所の部屋の前まで来ると、大声でやり合っている声が中から聞こえた。

クリスチャンで温厚な所長と革ジャン姿、単車で通勤する粋な部長(後にWHOアジア代表となり天然痘絶滅に貢献した)のふたりが真剣、大声で議論している。

台湾から着いた大阪商船チャーターの貨物船御影丸(乗組員38人2731トン)を門司港外の六連島(むつれじま)錨地で検疫し全員の上陸を許可した。症状は出ていないが、台湾、フィリピンなどで大流行中のコレラの危険はないか、と激論を交わしていた。

折から台湾バナナのの輸入が禁止された直後でもあり、上陸した38人の中に若しコレラ患者がいるようなことがあれば大問題だ。

原稿にして小倉局に送稿、念のため小倉に出向いてデスクに細部を説明した。デスクはすかさず平凡社大百科事典を持って来させ「コレラといえばトンころり。すぐ死ぬんじゃないか?乗組員がピンピンして上陸したんでは、放送はちょっと待とう」「福岡(小倉の上部局)には一応送っておけ」という指示で、原稿は保留となった。

数日たっても保留のまま。そんな夜、飲み屋で読売の支局長と出合った。「変わったことないか」という質問に、検疫所の話をした。

翌日、読売の朝刊は1面トップ。「門司にコレラ上陸」「戦後初」黒ぬき特大見出しが躍っていた。

たちまち市中はパニック。生ものは危険とあって魚屋の店頭から魚が消え、予防接種は対岸の下関にまで及んだ。

福岡局から応援の取材陣がどっと乗り込んで来た。「読売に抜かれたのはアイツか」と見られているようで肩身がせまかった。

読売は、門司支局から福岡の西部本社に情報を上げたところまではNHKと同じだったが、情報はさらに東京本社に伝達、厚生省担当記者が動いた。

同じ情報を握っても老舗は違うな、と教えられた。

昭和37年度版厚生白書を見ると「御影丸の乗組員38人からコレラ患者3人、保菌者19人が発見された」とある。

後で聞いた話ででは、入港前に予めクロロマイシンを服用して検疫をパス、全員上陸を許可されたという。

また真性コレラとは別に「エルトール小川型」という弱毒性のコレラもあることも教えられた。

読売に抜かれた朝日は功をあせって冒険に出た。サンパン(港内を行ききする小型船)を雇って記者とカメラマンを検疫錨地に向かい、足止めされている御影丸に乗り込ませて船内ルポを掲載した。

これが「伝染病予防法」にひっかかり2人は隔離、支局は閉鎖の憂目をみた。

隔離患者を収容する門司検疫所彦島措置所は見る影もないオンボロ庁舎だったが、翌年度の予算で見違えるような近代施設になった。こんなのは「なに太り」というのだろう。

2か月近くに及んだ「コレラ騒動」は9月22日、厚生省が安全宣言を出し、感染者なし死亡ゼロで終焉した。

パニックとはいえ、関門、北九州のコレラ騒動と全世界を巻き込む現下の新型インフルエンザを比較する気はないが、その陰には大なり小なりの悲喜劇が展開しているだろうと想像する。(完)


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