2009年05月11日

◆シマゲジに初の評伝

渡部亮次郎

シマゲジ死して13年。初めての評伝が刊行された。後輩によって「まとも」に評価されている。NHKで会長にまで登りつめながら
表面的には傲岸不遜な態度を貫いたゆえ政治家たちに引き摺り降ろされた不世出の政治記者島 桂次(しまけいじ)。

このたび島に最期まで仕えた元NHK社会部記者小野善邦(おの よしくに)によって実に「正確な」評伝が刊行された。『本気で巨大メディアを変えようとした男』異色NHK会長「シマゲジ」・改革なくして生存なしとサブ・タイトルが打たれている。

発行元「現代書館」5月15日発売、2300円に税
書籍番号 ISBN978―4−7684―5607―1

目次だけ紹介しておく。結論を先に言えば、島のNHK改造論は全く正しい。しかし己を頼む意識ばかりが強くて実現のための戦術論がなかった。下請けする仲間がいなかった。政治家を馬鹿にするだけで利用する術に思いが及ばなかった。政治家を孫請けにすべきだったのに。

当時を詳しく知る者(すべてOB、OGになっている)たちは弟子の海老沢勝二を理事に再任せずに外部に出した事が政界の怒りに火をつけ、本来は島を助けるはずの野中広務にクビを取られたのだ
と受け取っている。

これについて小野は「海老沢を1度外部団体に出して修業させた後、専務理事として戻すハラだった」と打ち明けるが、それなら本人に伝わるような手立てをすべきだった。案外照れくさかったか。

だが世間は後に海老沢が会長になって見ると「あの時、島は海老沢に寝首をかかれるのがこわかったのだ」とさらに誤解した。

OBの中には島意中の後継者は既に決っていた、と具体的に名を挙げる人さえ居る。

第1章 「シマゲジ」という男ー生い立ちと新生NHK

第2章 激動の時代へー政治記者島桂次

第3章 瀕死の恐竜―崖っぷちのNHK

第4章 挑戦の始まりーNHK王国と政治

第5章 旧態を許さずー組織に風穴を

第6章 左遷と覚醒―島桂次の変身

第7章 壊しながら創るー改革なくして生存なし

第8章 陣頭の闘いー海外を飛び回る会長

第9章 失われぬ志ージャーナリストとして死す

エピローグ 改革者からのメッセイジー日本の巨大メディアNHKはどこへ行くのか?

「年表」が付されている。誰が挑んでもこれ以上の島桂次評伝は書けないだろう。

それは小野が島に求られれて、敢えて社会部記者をやめて島政経番組部長の下へプロデューサーに転身して駆けつけ、常時、島の身辺にあり、島のハラをさぐり、助けたからである。そういう人物は秘書を務めた堀 徹男と山下頼充以外には居ない。

著者の小野は私と同じく1936年生まれ(愛知県)だが、NHK入りは遅くて1960年。初任地が私の郷里秋田県。そこでサツ周りから記者を始めたが、地元紙のボスが愚兄渡部誠一郎。「かなり可愛がられました」と言っている。

奇縁は島と私の間にもある。NHKに正式入社して島の初任地は仙台で次が盛岡をへて東京政治部。私もそっくり同じコースで政治部。

東京オリンピックのあった昭和39(1964)年の7月10日に私は政治部勤務を発令され戸惑いながら上野へ着いた。

政治部なんて希望した事はなかった。一生、地方周りを覚悟していたからである。上野に着いたその日は自民党総裁選挙で池田勇人が3選されていた。池田派の幹部に肩を並べていた島は社に上がってこなかった。

島が盛岡在任中後輩の記者を後ろに乗せてオートバイを酔っ払い運転で転倒。怪我は軽かったが警察の醜態を撮影された。私の在任中は毎年、春と秋の交通安全期間中、その写真が警察の掲示窓に「酔っ払い運転の末路)とコメント付きで掲示された。

政治部に来てからはアル中のため酒を断つったらしい。しかしわれわれ新人には言葉もかけなかった。小柄だが横柄な口の利き方をする人。とっつきにくかった。

「先ごろ海老澤勝二が島に強要されてウイスキーを飲みすぎて病院に担ぎ込まれた事がある」ときかされた。

なんでも島は同じ平河クラブで自民党池田派を担当。池田3選を巡り藤山愛一郎派担当の山本弁介と対立。政治部の部屋で取っ組み合いの喧嘩をした。

結果、池田は3選したものの「喧嘩両成敗」で山本は総理官邸クラブ、島は霞(外務省)キャップに配転された。

そんな具合だから「お前、仙台、盛岡と俺と同じコースだったな、メシでも食おうか」なんて声がかからないままだった。

私は若くして河野一郎派担当だった。河野は当時オリンピックと韓国との国交再開交渉を担当。私の聞きだす情報は島の役には立ったらしく「バカ」呼ばわりはされたことは無い。殆どの後輩を「チョンチョコピー」としか呼ばなかった。折角呼び寄せた小野をもそう呼んだらしい。

ある日政治部へ帰ると島が臨時デスクをしていた。「りょうじろう!いままでどこに隠れていたんだ」という。「捜したぜ」と言う意味だったろうが「隠れていた」は穏やかでない。つい「なにをっ!」と反抗した。島はびっくりした顔をして下を向いた。案外気は小さいと思った。

島は政治部ではデスクにも部長にもなれなかった。部下が誰も懐かないのじゃ仕方がない。政経番組部長に転出した。それが島の視野を広げ出世に役立ったようだ。しかし未入閣の代議士は無視していた。彼の役には派閥の長クラスでないと政治家ではなかった。

後に郵政省(当時)から来た小野会長に煙たがれてアメリカ総局長(ニューヨーク)に飛ばされたときも意に反して目を世界に開くきっかけになった。

池田総理大臣の蚊帳に入ってまで情報を聞きだしというのが自慢だった。「そうだ、政治家は嘘を言うのが商売だ。特に記者会見の発言などみんな嘘。見も知らない不特定多数に本心を打ち明けるはずがない。真実はサシ(1対1の取材)にしかないを真情としていた。これは真実だった。

ある日共同記者会見で言を左右する田中角栄幹事長が会見を終えたら国会内のトイレに駆け込んだ。隣に並んで用を足しながら「幹事長、ほんとのところはどうなんですか」と聞いたら本当の答えが返ってきた。

「記者会見では嘘を言うしかない。だから良心が咎める。ほっとして小便に行く。その時「ツレション」をしながら聞くとそこで本心を言う」と島は教えてくれた。

記者でなくなってから、参議院記者クラブにいる私を訪ねてきたことがある。角福「戦争」でいかに角栄が底流で多数を制しているかをとうとうとぶった。自民党担当記者でなく私のところでぶち上げても仕方ないのに。

若い頃はアルコール中毒になった。たしか昭和38年夏、鈴木善幸(後の首相)について岩手県内を旅行したとき、島の飲むジョニ赤を3本、鞄につめて持ち歩いたのは善幸だった。

のちに私が著書でそのことを書いたら削除しろと他人を介して申し入れてきた。「東京の政治記者とは凄いものだ」と書いたのだ。取り消さなかった。照れだったのだろう。

あれだけ傲岸不遜に振る舞い、そのことが命取りになった島。本当は小心者、だから酒を呑んで威張り散らした。だからアル中になった。それで酒を断ったが、その地位は酒がなくても威張れる程高くなっていたから傲岸不遜で通せた。

会長を追われたのちインターネットによる事業を立ち上げ、外部の新しい仲間も出来ていたらしいが、会長辞任から5年しか生きなかった。粟粒結核のため板橋の日大病院で寂しく死んだ。69だった。

島死して13年。島改革が挫折して漂流するNHKの13年だった。返す返すも島の挫折が悔やまれるが、島に戦略は会っても戦術のなかったことも同時にくやまれる。2009・05・10
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック