2009年05月13日

◆山科だより「安朱」「四ノ宮」

渡邊好造

山科の北はほとんど山である。その山の東のなだらかな斜面に、頭に”安朱(あんしゅ)”とつく町は17、”四ノ宮(しのみや)”とつく町は19ある。

今回はこの2つの町々の主な名所旧跡・見所を紹介する。 ”安朱”の地名は、江戸時代初期に"安祥寺村"と"朱雀村"が合併して生れた。山科駅は、JR、京阪、地下鉄東西線と3つあるが、いずれも”安朱”とつく町内にあり近接している。

"安朱稲荷山町(いなりやまちょう)"の高台には、「毘沙門堂門跡(びしゃもんどうもんせき)=天台宗=正式名・護法山出雲寺(ごほうざんいずもじ)」がある。大宝3年(703年)行基菩薩が出雲路(京都上京区の御所北側)に開設した。

仁王門は京都市重要文化財に指定され、書院の襖絵116面は狩野益信(徳川家光に愛でられた画家)筆のもの。応仁の乱で荒廃し、織田信長の兵乱によって全焼したりしたが、江戸幕府により安祥寺の寺領の一部を与えられて寛文5年(1665年)この地に再興された。

正月初詣や初寅の日の”おかげ参り”では参拝客で賑う。本尊の毘沙門天座像、寝殿、庭園、本堂、一目千両といわれる樹齢百数十年の枝垂れ桜など、見所は多い。

同じ"安朱稲荷山町"にある「護法山双林院・山科聖天(そうりんいん・やましなしょうてん)」は、「毘沙門堂」再興の折に山内の寺院・塔頭として建立された。9月には大般若祭、11月にはもみじ祭が行われる。

南へ下がった"安朱堂ノ後町(どうの・うしろちょう)"には、赤穂義士所縁の「瑞光院(ずいこういん)=臨済宗」がある。慶長18年(1613年)堀川鞍馬口に創建され、院主3世の陽甫和尚が浅野内匠頭夫人の族縁にあたることから浅野の供養塔が建てられた。

火災などで2度廃寺になっているが、嘉永7年(1854年)浅野一族末裔によって再興された。明治43年(1910年)に塔の後ろに桜の木を植えようと掘返した時義士らの遺髪がみつかる。昭和37年(1962年)堀川通り拡張のため山科の現地へ移転させられた。

「毘沙門堂」、「瑞光院」ともに山科駅から徒歩15分。京阪山科駅は、大正元年(1912年)京津(けいしん)電気鉄道東山三条駅(京都市東山区)〜札の辻駅(大津市)間開通時、”毘沙門堂”が駅名であった。JR山科駅は、大正10年(1921年)京都からのトンネル開通時に地下鉄東西線小野駅あたりから現在地に移転した。

山科駅から旧三条通りを東へ約5分位の所、"四ノ宮泉水町(せんすいちょう)"に「山科地蔵・徳林庵(とくりんあん)=臨済宗」がある。天文19年(1550年)開創され、子宝の霊験で知られる。第54代仁明天皇(にんみょう=在位833〜850年)の第4皇子・四之宮人康(さねやす)親王と百人一首で有名な蝉丸の供養塔があり、親王の”四之宮”が地名の由来である。高さ3メートルの地蔵尊は仁寿2年(852年)に刻まれたもの。

毎年8月22〜23日の”六地蔵巡り(別名・四ノ宮祭)”には、門前の旧三条通りが500メートルに亘って歩行者専用道路となり、露店が並び参拝者で一杯になる。

" 四ノ宮中在寺町(ちゅうざいじちょう)"の「諸羽神社(もろはじんじゃ)」の境内には、四之宮人康親王の山荘跡と、親王が琵琶を弾く際に座ったとの謂れの大きな琵琶石がある。貞観4年(862年)に社殿が造られ、応仁の兵火や江戸時代の火災にあったがその都度再建されている。例祭は4月23日。

"四ノ宮柳山町(やなぎやまちょう)"の山科疎水に面した「一燈園(財団法人懺悔奉仕光泉林)」もよく知られている(京阪四宮駅から北へ5分、駅名に”ノ”はない)。奉仕集団(宗教法人ではない)として明治38年(1905年)に西田天香が創始、昭和4年(1929年)にこの地に開設された。天香が接した有名人、芸術家の手紙や作品を収めた資料館は「香倉院」という。

ところで、これまで山科の名所旧跡・見所のいくつかを紹介したが、今後紹介するものも含めて日本の神社・仏閣などの建物はたびたびの戦火で消滅したり、再建したりがいかに多いか。それも短期間に繰返している。

西洋などの大聖堂は完成まで100年以上、なかには600年というのもある。異教の敵地を制圧しても建物は壊さずに、部分改修で原型を残して利用される例もある。日本の木材建築の燃え易さ、壊れやすさ、壊しやすさに対して、西洋建築の頑強さはあるものの、それだけでは納得できない。壊すつもりなら素材が何であれ同じはず。

そこには、日本とは違った宗教感覚があり、主にキリスト教・イスラム教などでは互いに異教であっても神に対する畏敬の念が強く、その感覚が簡単に破壊させないのではないか。

そして、日本では現在でも魂がヒトダマとなり空中に漂って化けて出ると信じる人が多い。これは「御霊信仰(ごりょうしんこう)」といわれるもので、とくに怨みをもって死んだ人や殺された人の魂が生きていた時よりもイキイキと動き廻って相手に手ひどい仕返しをするので、その怨霊を鎮めるために「御霊会(ごりょうえ)」をおこなった(「お坊さんが困る仏教の話=村井幸三著」)。

この信仰は奈良、平安時代から始まり”応仁の乱”以降も強く信じられていたらしく、敵対する相手の怨霊をよみがえらせないようにと建物を徹底破壊した、と私は勝手な推測をしている。(完)


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