2009年06月28日

◆山科だより 音羽・小山・大宅・京都刑務所



                   渡邊好造

京都市山科区の中央を山科川が流れる。山科川は、宇治川、淀川へと繋がり大阪湾に注ぐ。この川に沿って外環状線道路が山科駅から南へ京都市伏見区の六地蔵へ向かう。その地下は地下鉄東西線が走る。

今回は、この道路の東側にある「音羽(おとわ)=この町名数・19」、「小山(こやま)=同・19」、「大宅(おおやけ)=同・25」の3地区と、「東野(ひがしの)=同・13」の東半分にある「京都刑務所」を紹介しよう。

「音羽」の地名は、大津市との境にある高さ593メートルの"音羽山"とそこから山科川に注ぐ"音羽川"一帯のかっての「音羽荘園」に由来する。

"音羽山"の支峰で551メートルの高さの「牛尾山(うしおざん)」は”音羽南谷町(みなみたにちょう)”に位置し、そこには由緒ある「牛尾観音=正式名・法厳寺(ほうごんじ)=浄土宗」がある。宝亀9年(平安時代・778年)延鎮が創建した。

京都東山・清水寺の所在地もおなじ音羽山であることから"清水寺の奥の院"ともいわれる。京阪電車・京津線「追分(おいわけ=大津市)駅」から山道を徒歩約1時間登る。本尊は十一面千手観音で、御開帳法会として4月と10月の17日に公開される。

“小山大石山(おおいしやま)”の「白石神社」は"音羽山"の麓にあり、大同年間(平安時代・800年初め)から"伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)"を祀っている。両神は"日本書紀"によると国々と山川草木を生み出した、とある。境内に高さ4メートル長さ9メートルの白い大石があるので、この神社名がついた。

「小山」地域(一帯を小山の里と呼んでいた)で700年来の伝統行事として続いているのが、2月初めの「二九(二の講=にのこう)」祭である。平安時代からこの地に代々住む勇者が"音羽山"の大蛇を退治したらその祟りで病になったので、その霊を鎮撫するために孟宗竹に300束の藁を巻きつけて作った20メートル位の大蛇をかつぎ練り歩く。

“音羽森廻り町(もりまわりちょう)”には「若宮八幡宮」がある。天智天皇(在位668〜671年)が山科巡行の際にこの地に建てるように勧請した。天武天皇(在位673〜686年)の第3皇子・大津皇子とその子・粟津王の供養塔がある。

皇子は朱鳥元年(奈良時代・686年)謀反の疑いで自死させられた。明治時代の神仏分離、廃仏毀釈の政策によって、神宮寺(神社に付属寺)」が廃寺となり、そこにあった仏像は西隣りの「南殿光照寺(なんでんこうしょうじ)=浄土真宗」に移されていたが、昭和42年(1967年)に戻されている。

「南殿光照寺」は、”音羽伊勢宿町(いせじくちょう)”にある。ここは蓮如(浄土真宗第8世宗主)が延徳元年(室町時代・1489年)から明応8年(同・1499年)まで隠棲していた「泉水山・光照寺」のあった所で、天文元年(同・1532年)に法華宗に襲われ焼失した。寺内跡地は、国指定史跡である。最寄駅は、京津線「四宮駅」と地下鉄東西線「東野駅」。

“大宅中小路町(なかこうじちょう)”には、「岩屋神社」がある。寛平年間(平安時代・889〜897年)創建。陽と陰の巨大な2つの石に祭神「天忍穂耳命(あめのおしほ・みみのみこと)」とその皇太后、皇子がそれぞれ祀られている。治承年間(平安時代・1177〜1180年)に「園城寺(おんじょうじ・通称は三井寺)=天台宗」の僧に焼かれたが、弘長2年(鎌倉時代・1262年)に再建され現在に至る。例祭は4月29日。豊作祈願の八朔祭は9月1日。

“大宅奥山田(おくやまだ)”の「歓喜光寺(かんぎこうじ)=時宗」は、"時宗の開祖・一遍"の弟子・聖戒が正応4年(鎌倉時代・1291年)京都八幡(やわた)に創建し、京都を転々としたあと東山からこの地に落着いたのは昭和50年(1975年)。国宝で寺宝の「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」がある。

「大宅」の地名の由来は、この地の豪族"大宅"氏の名前からという説、"大屋家(おおやけ)"といわれる中臣鎌足(645年の大化改新の立役者)の館があったからという説、の2説がある。東西線「椥辻(なぎつじ=この町名数は10=付近に"なぎ"の大木があった)駅」が近い。

「東野」は、「音羽」と「大宅」の西側に位置する山科住宅街の真ん中にある。中央原野一帯をかって”野村”と称し、後に”東野(村)”と”西野(村)”に分けられた。

「椥辻駅」に近い”東野井ノ上町(いのうえちょう)”には名所旧跡とは冗談にも言えないが、「京都刑務所(1486平方メートル=450坪)」がある。約1500人の収容者は木工、印刷、洋裁などの作業に従事し、製品はすぐそばの専門店で販売されていて好評。高い塀で囲まれているが刑務所だといわれない限り分りにくいし、住民もそれ程意識しているようには思えない。

明治2年(1869年)に「二城城」の南(中京区・六角通り大宮)に"徒刑場"の名で設置され、同3年(1870年)に城の西へ、同・14年(1881年)"京都府監獄所"、大正11年(1922年)「京都刑務所」となった。

法務省・大阪矯正管区に属する刑務所である。昭和2年(1927年)京都市内が手狭になり、空き地だらけだった山科に移った。今のように便利な住宅地だったら反対運動で大変だっただろう。

かって、養鶏場の傍へ移転してきた住民が臭いからといってその養鶏場を追出しにかかる、米軍の基地ができるまでは周りは鬱蒼とした森だったのにそこに住宅が建ち並び、その住民が危険だ騒音がひどいと基地移転を迫る、空港の騒音がウルサイとして保証金を受取りながら、その空港が移転となると反対をする、など身勝手な話をいくつも聞いたことがある。

それを思うと山科の住民は皆な大人しく、礼儀正しく、そして寛大である。(完)




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