2009年07月06日

◆李承晩ラインがあった



         渡部亮次郎

李承晩(イ・スンマン、1875年3月26日―1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年―1960年)。われわれは「り・しょうばん」と言い習わしていた。
だから見出しは「りしょうばんライン」である。

1911年(明治44年)、寺内正毅総督暗殺計画に連座して投獄される。

1934年(昭和9年)滞米中、オーストリア人のフランチェスカ・ドナーと結婚。1941年『日本の内幕記』を著し日本の対米宣戦を予告。1945年(昭和20年)10月、アメリカより帰国。

1946年2月大韓独立促進国民会を結成、総裁に就任。

1948年(昭和23年)8月13日、アメリカの梃入れにより大韓民国成立、初代大統領に就任。以後、「反共」を掲げるも圧倒的な「独裁」を12年間貫いた。

李承晩は、朝鮮の独立運動に関わっていたという経歴から分かる通り、日本を激しく嫌った。

代表的な対日政策の一つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。日本官憲による投獄中、生爪はがしの拷問を受けたため、憎悪の念は激しかった。

李承晩ラインは、1952(昭和27)年1月18日、大統領・李承晩の海洋主権宣言に基づき韓国側が一方的に設定した軍事境界線。韓国では「平和線」と宣言された。

海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で行うことを禁止したものとされたがが、本当の狙いは韓国で獨島(「独島」)と呼ばれている竹島と対馬の領有を主張するためであるとする説がある。

これに違反したとされる日本漁船は以後韓国側による臨検・拿捕の対象となり、銃撃され殺害される事件が起こった(第1大邦丸事件など)。西日本の漁民は塗炭の苦しみを味わった。

国際法上の慣例を無視した措置として日米側は強く抗議したが、このラインの廃止は1965年(昭和40年)の日韓漁業協定の成立まで待たなくてはならなかった。

私はこの頃既にNHKの政治記者であり、たまたま衆議院担当だった。問題の日韓漁業協定を含む日韓条約の国会批准にあたって日本社会党と共産党が反対した。北朝鮮びいきだったからだ。

このため、自民党は衆参両院とも本会議で強硬採決を断行した。特に衆議院本会議は1960年の安保改訂国会以来の乱闘となり、野党が議長席占拠のため駆け上がるため起きた地鳴りは44年経った今も耳に残っている。

協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。

李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を収容所より放免して在留特別許可を与えた。

領土問題に関しては、他にも「対馬も韓国領土」「沖縄は韓国固有の領土である」などと発言したり、朝鮮戦争の際にも「釜山が陥落したら、福岡に亡命政府を置く」などと主張して、幾度となくマッカーサーから叱咤を受けていたほど、日本を占領したいとも発言している。

また、日本の大衆文化を「公序良俗に反する表現」として規制した。その結果、日本の大衆文化を剽窃したものや海賊版などが横行する事態に陥った。

のちに韓国でも著作権の概念が浸透し、また金大中政権以降、段階的に日本の大衆文化の開放が行われるようにはなったこともあってしだいに改善されてきている。

李承晩政権は日本との国交正常化には消極的で、結果的に日本からの公の経済援助を得る機会を大幅に遅らせることになった。交易拡大についても消極的で、外貨流出や北送事業(北朝鮮帰国運動)への抗議を理由に、1955年8月〜1956年1月、1959年6月〜1960年4月に日本と通商断交している。

また、1959年8月には「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難し、予定されていた日韓会談の中止を指示した。

後の朴正煕政権は日本との妥協点を模索し、日韓基本条約を交わした。日本からの多額の無償経済援助や借款を得るとともに、対日貿易が経済発展の唯一の方法として積極的に推進した。

このような朴正煕政権の政策と対比して、李承晩政権の対日政策と1950年代の経済低迷との因果関係が指摘されている。

1960年、李承晩が4選を狙った大統領選挙に際して、3月15日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、反対デモが頻発。8人死亡50人以上が怪我という馬山事件になった。

馬山事件に抗議するデモは瞬く間に韓国中に飛び火し、4月18日には高麗大学とソウル市立大学の学生が国会前で座り込み、翌4月19日にはソウルで数万人規模のデモが行われた。各主要都市でも学生と警察隊が衝突し、186人の死者を出した(4・19学生革命)。

国会は、大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択した。このことを受けて午前中に、李承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、下野した。12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。

副大統領の李起鵬は4月28日に一家心中し、大統領の李承晩は1960年5月29日に夫人を引き連れ、アメリカハワイに亡命した。それから5年後の1965年7月19日、その地で90年の生涯に幕を閉じた。

因みに、フランチェスカ夫人は夫の没後、故郷であるオーストリアを経て、1970年5月16日に韓国へ戻り、1992年3月19日にソウルにおいて92歳で死去している。2009・06・21
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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