藤本 敬八郎 (彫刻家・神戸市在住)
<これはフィクションではない。装飾的な色を遠ざけ、モノクロームの記憶をたどりながら、私の体験を書き綴った実記録である。>
日本から西へ遠く離れた中国大陸。広大な土地の内陸部山西省の省都・太原(たいげん)市。太原日本中学校第1 期生で入学した実兄は、文武両道なににつけても優等模範生で先生の覚えもよく、また学年のリーダ的存在であった。安心の拠りどころに、親は私を兄弟一緒の中学校と寄宿舎に入れておきたかった。
兄15歳、私13歳、昭和19年春のことである。
激しい戦時体制の日本は悪戦苦闘。米国だけが対戦国でなく、ここ中国大陸でも中国軍との戦いは続いていた。もはや日本帝国陸軍の力は、大本営発表とは大きな落差で感じとっていた識者が少なからずいたというが、まだ幼い頭脳の少年たちは祖国の勝利を疑わなかった。『撃ちてしやまむ』『欲しがりません勝つまでは』が、少年少女たちの心に強く深くしみこんでいたから。
父は戦前の逓信省に職を得ていた。中国大陸への最初の赴任地は河北省天津であった。このあと山西省から山東省へと転勤の多い立場で、その都度私たち兄弟は転校をよぎなくされていた。
ひとの一生には複雑で不思議な出会いがいくつもある。運命的な流れに棹さすことはできないようだ。私は、成るべくして中国の地で幼少期から少年時代を送り、時代の波に呑まれながら『運命』の二文字を背負って生きていかなければならなかった。
学徒動員先の兵器廠では、中学生はいろいろな職種へ学年相応に配属されて働いていた。中学4年生はトラック運転と、帝国陸軍の三八式歩兵小銃の点検と部品交換である。また、戦利品のソ連製武器や外国製小銃を分解点検して、欠陥を見つけだして修理をする。これらは昨日まで中国軍兵士が戦闘で使っていたものだ。
修理完了後は射撃場で実弾発射して性能を確かめる。外国製小銃は弾径が若干大きいので発射反動が強くて、少年たちの肩への衝撃が大きい。それがあの年齢の男の子には魅力であり、体験話に花が咲く。
『一刻も早く、一丁でも多くの銃を前線へ届けよ! 友軍は短剣だけで戦っている』と至上命令であった。以上は寄宿舎に帰ってからたびたび聞かされた上級生の自慢話の概要である。
銃後の民と皇軍が困窮しているとはいえ、修理した敵の銃をあてにして使うとは、惨めなものだと、わたしは子ども心に思った。しかし、これ程まで疲弊逼迫していたことを、少年たちはまだ誰も気付いてはいなかった。私たち2年生は、軍馬の鞍や鐙(あぶみ)、乗馬用長靴や手綱に保革油を塗る魅力に乏しい手作業が毎日続いていた。
昭和20年8月15日の昼。ここ兵器廠の中庭に集められた中学生たちは、みな不動の姿勢でラジオ臨時放送を聴いた。ご同輩各位も、それぞれの環境の中、それぞれの思いで日本の運命を決めた玉音放送を聴かれたことであろう。64年前の強烈な印象も今となっては、ぼんやりと燻んで色失せた『日本のいちばん長い日』の残像となってしまった。
国家戦略とはいえ、学制を簡単に変えて中学最高学年を4年制にしてしまった国策は、5年生を戦闘要員として獲得しておく必要があったのだろう。当時の少年たちの多くは、その手にのったと云えば云い過ぎだろうが。あの時代に青春を共に生きた若者の大多数が、志を国家のために殉ずる心意気を、今日の国家史観や、薄っぺらな一次元の人生観で切られてしまうのは、慙愧に堪えないものがあるに違いない。
実兄も渦中の一人であり、中学4年生のときに、甲種飛行予科練習生志願が叶って、終戦の4ヶ月前に神奈川県藤沢の海軍基地へ入隊のため帰国していった。その後の兄の生死を知るすべを私は持たなかった。(つづく)