2009年07月26日

◆「日本のいちばん長い日」にリセット(3)

                  
               藤本 敬八郎 (彫刻家・神戸市在住)

米濱泰英著『日本軍山西残留』によると、「8 月15 日の日本の全面降伏とともに、大本営はアジア・太平洋各地に駐屯する日本軍に対し一切の武力行使の停止を命じたが、中国残留日本軍105万に対してだけは例外の扱いとしたため武装したまゝ従来の守備についていた」とある。

朝野のことばは更につづいた。

南陽は朝野に続いて客車から降りたが、そのとき南陽は日本兵から手榴弾を一個所望したという。当時の太中生はゲートルを巻き陸軍軍服に酷似した意匠の制服を着ていた。軍事教練で小銃取り扱いはみな慣れていたし、手榴弾の手渡しも特に異常な行為ではなかった。

混雑した中国人乗客にまじって、切り立つ崖側とは反対の河川敷に降りた。全ての乗客は中国人でそれぞれが大きな荷を2つも抱え、口々に憐れむように「ピエポー、ピエポー」と叫ぶ。検証した訳ではないので今もその真意は不明だが、朝野によると「善良な農夫で、反抗はしない」という意味だろうと云う。戦闘の危険から遠のいて行く群衆に中学生2人も混じっていた。

近代銃撃戦では護身の基本は、地面の凹凸を利用して身を伏せる。遮蔽物を巧みに使って敵の死角に入るべし等と習っていた。2 人は匍匐前進で安全地帯へと進む。朝野の後方5米に南陽は右手にあの手榴弾を握っていた。

技のたつ狙撃手は千里眼を持つと云われるから、むきだしの日本製手榴弾を握る小柄な日本兵? は格好の標的だったにちがいない。「痛い!」という声を後ろで聞いた。匍匐前進をやめて朝野は後方を見ると、あおむけになった南陽は、うらめしげに崖上の敵を眺めている。

一瞬の出来事に朝野は茫然自失。太腿の深傷の止血など一中学生の力の及ぶものではない。無知と無力を深く恥じた。医師だ、救急車だという今日的尺度で対処できないのが野戦場だ。朝野は為す術を失い、たゞ友の傍らについてやるだけだった。

傍らを、自分のことで精一杯の他人が通りすぎてゆく。刻々と過ぎ去る時間。南陽は虚空の中に遊んでいるのだろうか?出血が続くと肉体と脳は苦痛と現世のしがらみから解き放たれるのかも知れない。眼は虚ろであるが、穏やかな顔をしている。この間にも友軍は交戦を続け、双方に死傷者が幾人も出たという。

2人になった青雲塾では、南陽の最期のはなしをよくしてくれた。15 歳の短かすぎる南陽先輩の死。彼が思い描いた祖国独立の夢と、死の現実とをどう結びつけたらいいのか。終戦記念日。暑い夏が、また巡りくる。(終)
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