2009年08月06日

◆石油の恨み数々ござる



                 渡部亮次郎

オイルショックは、1970年代に2度あった、とフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』はいうが、大東亜戦争も石油が原因で敗戦となったのだから、あれが初の石油ショックといえないことはない。

私の子供のころ、郷里の秋田や新潟では石油が産出されていた。だが極わずか。大東亜戦争の頃、中東の石油はまだ発見されておらず、アメリカとの戦争を決意した日本は当のアメリカからの輸入石油を1年分備蓄した。

開戦後は産油国インドネシアの石油に頼ろうとした。そのために陸軍落下傘部隊第1期生となった園田直はパレンバン石油基地に降下しようとしたが上手く行かなかった。戦争末期には「石油の1滴は血の1滴」と泣かされた。

やがて敗戦。時をおいて経済の高度成長期に達する。その間、産業界では使用エネルギーが石炭から石油に代わった。そのために歴史に残る三池炭坑争議などを招来したがエネルギー(石油)を何処から確保しているのか、一般国民は関心を持たなかった。

通産大臣を経て総理大臣になった田中角栄ですら「角福戦争」圧勝のネタ本「日本列島改造論」の中で「石油」をどうやってどこから確保するかの記述を忘れたぐらいだった。

1973年10月6日に第4次中東戦争(イスラエル対アラブ産油国)が勃発。これをうけて10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国は、原油公示価格の21%引き上げと、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸を決定。

さらに12月には,翌1974年1月より原油価格を2倍に引き上げると決定した。

当時の日本は中東の政治に深く関わってはおらず、イスラエルを直接支援したこともなく、中立の立場であった。しかし、最大のイスラエル支援国家であるアメリカ合衆国と強固な同盟関係にあった日本としてはイスラエル支援国家と見做される可能性が高かった。

そこで田中首相は急遽、三木武夫副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外すように交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。

石油ショックは前の佐藤内閣当時のニクソン・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃。前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレが発生していたが、オイルショックにより相次いだ便乗値上げなどにより、さらにインフレが加速されることとなった。

国内の消費者物価指数で1974年は23%上昇し、福田赳夫が「狂乱物価」という造語で表現した。インフレ抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資などを抑制する政策がとられた。

結果1974年はマイナス1・2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。田中「今太閤」内閣の足を強烈に引っ張った。

当時、私はNHK政治部を追われて大阪にいたが、トイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動(トイレットペーパー騒動)が大阪から始まった。デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生した。

この時も私は上司と対立した。事態を克明に報道することはパニックを煽ることになり混乱を助長すると抵抗したのだ。事実、物資は豊富にあり買い占める必要のなかったことがすぐ判明したのだった。

雇用調整(新規採用の停止、残業時間の短縮など)のほか、テレビの深夜放送の休止。そのほか、ネオンサインの早期消灯やガソリンスタンドの日曜休業などの処置が取られた。

他に、本州四国連絡橋3ルートの着工延期の指示が下った。起工式5日前の事であった。その後、計画された3ルートのうち、1ルート(瀬戸大橋)のみ、着工が1975年に決定した。日本列島改造論の「つまずき」の始まりだった。

フランスのジスカール・デスタン大統領の発案により、1975年に第1次オイルショック以降の経済の回復を主たる議題とした第1回先進6カ国首脳会議(サミット)がフランスのランブイエ城で開催された時、田中内閣既に倒れ。日本から初参加した首相は三木武夫だった。

続く福田赳夫政権が第2次オイルショックを被った。1978年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。前以てイラン1を訪問して居りながらイラん革命を予測できなかったわけで、「経済の福田」はこれにより不景気を克服できないまま退陣した。

また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14・55%値上げする」ことを決定し、第1次オイルショック並に原油価格が高騰した。

しかし、第1次での学習効果により、日本経済に対する影響は第1次オイルショックほどひどいものにはならなかった。また第1次の頃ほど値上げは長引かず、イランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。2009・08・05
出典:「ウィキペディア」

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