2009年08月30日

◆古関裕而こそ努力の天才



               渡部亮次郎

私が天才作曲家と呼んでやまない古関裕而(こせき ゆうじ)の今年は生誕100年であり、郷里福島県では様々な催しものが展開されている。

ところが彼は戦時中、多数の軍歌を作曲した故を以て作曲界の大御所だった高木東六は死ぬまで古関の悪口を言い続けた。天才ぶりがよほど堪えたのか、さすがに学歴の無さには言及しなかったが、私には実にハラの立つ悪口だった。自身も「空の神兵」を作曲しているくせに。

高木は、演歌や歌謡曲に関しては、終生、「喜びや笑い、ユーモアがない」や「メロディーが暗くて絶望的。歌詞も星、涙、港と百年一日である」と公言するほど、批判的な意見で有名だった。

一方の古関裕而 1909(明治42)年8月11日―1989(平成元)年8月18日)は、作曲家だったが、それらしい学歴はなくすべて独学でやり遂げた。本名は古關勇治。従五位勲三等瑞宝章、紫綬褒章受勲受章。

福島に住みながら仙台に通い、金須嘉之進に師事した。金須はリムスキー=コルサコフの弟子。正教徒で、正教の聖歌を学ぶため革命前のペテルブルクの聖歌学校に留学し、そのときリムスキー=コルサコフから管弦楽法を学んだ。

古関はこの師金須をたいへん尊敬し、自分がリムスキー=コルサコフの孫弟子になることを誇りとしていた。

1929年、チェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入選、日本人として初めて国際的コンクールの入選履歴を得た作曲家。

それを機会に山田耕筰の推挙で東京の楽壇に進出。倒産した一族を養うためクラシック畑からポピュラー畑に転進し、多数の軍歌、歌謡曲を作曲」した。

早稲田大学第一応援歌「紺碧の空」、慶應義塾大学応援歌「我ぞ覇者」、東京農業大学応援歌「カレッジソング」、中央大学応援歌「あゝ中央の若き日に」が有名。

全国高等学校野球選手権(甲子園)大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、大阪(阪神)タイガースの歌(「六甲おろし」)、読売ジャイアンツの応援歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」、東京五輪のオリンピックマーチなどの、多くの応援歌、行進曲の作曲を手がけ、和製スーザ(行進曲王)と呼ばれる。

NHKで使われているテーマ曲も多くは古関の作。スポーツ中継の冒頭に流されるスポーツ行進曲は一番親しまれている。気品ある格式高い曲風で知られ、現在でも数多くの作品が愛されている。

福島県福島市大町にあった呉服店「喜多三(きたさん)」に生まれる。父親が音楽好きで、大正時代ではまだ珍しかった蓄音機を購入し、いつもレコードをかけていた。

裕而は幼少の頃から、ほとんど独学で作曲の道を志していく。天才の所以だ。同じ大町の近所に鈴木喜八という5歳年上の少年がおり、のちに野村俊夫(作詞家)となって裕而とともに数々の名曲を世に送り出すこととなる。

戦争の色が濃くなると、音楽関係者らも軍歌・戦時歌謡を作らざるを得なくなった。古関も戦時歌謡で数々の名作を残している。古関メロディのベースであったクラシックと融合した作品は、戦意高揚が目的ではない、むしろ哀愁をおびたせつない旋律のもの(愛国の花、暁に祈る等)も多かった。

それが戦争で傷ついた大衆の心の奥底に響き、支持された。古関自身、前線の悲惨な体験や目撃が『暁に祈る』や『露営の歌』に結びついたと証言している。また自らの作品で戦地に送られ散花した人への自責の念を持ち続けていた。

戦後は、暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注いだ。長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌『長崎の鐘』。

戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌『とんがり帽子』。戦後日本の発展の象徴でもある1964年開催の東京オリンピックの開会式に鳴り響いた『オリンピック・マーチ』。

現在も毎年夏の甲子園に流れている高校野球大会歌『栄冠は君に輝く』。その他にも『フランチェスカの鐘』、『君の名は』、『高原列車は行く』などの格調高い曲を多く創作した。クラシックの香り溢れる流行歌や、勇壮で清潔感のあるスポーツ音楽が大衆の心を捉えた。

テノールの美しい音色と格調のあるリートのベルカントで歌唱する藤山一郎、叙情溢れるリリックなバリトンで熱唱する伊藤久男などの歌手にも恵まれた。

劇作家の菊田一夫と名コンビを組み、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルのヒット作品を世に送り出した。
1961年に菊田と手がけた森光子主演の放浪記は現在も公演記録を伸ばし続けている。

また、戦後の古関は、クラシック音楽の作曲を完全に諦めていたわけではなく、菊田と共同したミュージカル『敦煌』から交響組曲『敦煌』を編んでいる。

半寿の誕生日を迎えて1週間足らずの1989年(平成元年)8月18日死去。盛大な音楽葬が催された。生前、早稲田大学、慶應義塾大学の応援歌を作曲していた古関のために、参列した両大学の応援団がそれぞれの応援歌を歌い、古関の棺は、左右からさしかけられた両校の校旗をくぐって、多くの参列者に見送られた。

福島県福島市最初の名誉市民で、同地には1988年11月12日、「古関裕而記念館」も建てられている。本人はこの頃すでに入院生活を送っていたため、足を運ぶことは出来なかった。

2009年8月11日、生誕100年を記念し、モニュメントが地元福島市の駅前に設置された。制作・施工費は約1500万円。30歳代後半の古関が愛用のオルガンを奏でる姿をかたどったデザインで、1時間おきに古関が作曲したメロディーが流れる仕組みになっている。出典:「ウィキペディア」2009・08・28




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