2009年09月17日

◆山科だより「西野山」


             渡邊好造


平成20年(2008年)6月に開通した阪神高速京都線の鴨川東IC(京都市伏見区)から東へ、稲荷山トンネルを抜けると山科の”新十条通り”に出る。”新十条通り”は、東海道新幹線と国道1号線(五条通り)に平行した南約1キロの位置にある。

その両サイドには、”西野山(にしのやま)”と名のつく町名が10。その西側は山地であったため”西山”といわれていたのが、”西之山”となり、”西野山”となったのは江戸時代17世紀後半らしい。

”西野山中臣町(なかとみちょう)”は、大化の改新(奈良時代・645年)で有名な中臣鎌子(のちの鎌足=614〜669年)に所縁の地名で、ここには「折上稲荷神社(おりがみいなりじんじゃ)」がある。

女性の長寿と開運、商売繁盛の神で、とくに祇園の芸妓ら働く女性の守り神として有名。伏見区にある「伏見稲荷神社」と同じ神がここ折神の森”稲荷塚”にも降臨したといわれ、和銅4年(奈良時代・712年)に社殿が建立された。6月第1日曜が稲荷祭。家内安全の長命箸が授与される長命祭は12月13日。

中臣鎌子が病に倒れ、天智8年(669年)、夫の病気平癒を願った夫人が邸宅内に”山階寺(やましなでら)”を建てた。寺は後に奈良平城京に移転し、現在も残る世界文化遺産「興福寺(こうふくじ)=法相宗」である。京都薬科大学の東側(御陵大津畑町)の石材屋の一角に「山階寺跡」の石柱が建てられている。

この頃の山科は”山階”の字も多く使われていた。"科"と"階"は、どちらも"層が重なる斜面"の意味で、山科が北の山から南へ"下り斜面"になっていることを示すらしい。

”西野山岩ケ谷町(いわがたにちょう)”に「山科神社(別名・西岩屋大明神)」がある。本殿は室町後期の建築で京都市指定有形文化財である。寛平9年(平安時代・897年)に第59代宇多天皇(在位887〜897年)が創建した。10月10日が山科祭。

”西野山欠の上町(かけのうえちょう)”の「花山(かざん)稲荷神社」は、創起が延喜4年(平安時代・904年)。元「西山稲荷神社」だったが、第65代花山天皇(平安時代・在位984〜986年)の加護にちなみ”花山”に変えられた。11月第2日曜日に御火焚祭が行われる。

「岩屋寺(いわやじ)=曹洞宗」は、”西野山桜ノ馬場町(さくらのばばちょう)」”にある。赤穂浪士・大石内蔵助が仇討ちの大願成就を祈願しながらこの地の一角に隠棲し、計画を練った。「山科神社」の奥の宮(神宮寺)だったが、その後独立している。”山科義士祭”の終着点で、義士らの木像があり、別名・大石寺という。平安時代初頭の創建らしい。

大石が山科に隠棲したのは、大石が”西野山”出身の赤穂藩士・進藤源四郎の縁戚であった関係で、進藤が身元保証人となり居宅が建てられた。進藤が仇討ちに参加しなかったのは、大石と意見が合わなかった、失敗した時の予備軍だったなど諸説がある。

この大石居宅の西北、滑石越(すべりいしごえ)にはゴルフ場やテニス・クラブがあり、ここからの山科の眺望は素晴らしい。さらに進むと京都東山の”今熊野”に通じていて、遊里”祇園”への大石内蔵助の密かなルートだったという。

大石内蔵助を偲んで昭和10年(1929年)に「岩屋寺」と同じ住所に建てられたのが「大石神社」で、赤穂義士伝などで一躍人気浪曲師となった2代目・吉田奈良丸(昭和4年に吉田大和之丞に改名)が浪曲界などに募金を呼びかけて完成した。

奈良丸は、明治12年(1879年)生れで、明治43年(1910年)のレコード(78回転のSP盤)総生産枚数34万枚の内20万枚、翌年には67万枚の内50万枚という当時としては驚異的な売上げを記録している。収益を各地に寄進した功績もあり、亡くなる前年の昭和41年(1966年)に勲五等双光旭日章を受賞した。

筆者が、昭和20年代大阪の小学校在学の頃、父のコレクシヨンにあった奈良丸の義士伝「神崎与五郎東下り」の見事なリズムと美声を手回し蓄音機で何回も聴いた。

この時、大石内蔵助所縁の山科に永住することになるとは、、。大阪への通勤時間の長さや気候の差(夏は蒸暑く、冬は寒い)などに戸惑ったこともあったが、”住めば都”。都会の一角にありながら四方を山々に取囲まれ、自然と歴史を満喫させてくれる。そんな風情ある所が、『山科』である。(完)


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