2009年09月18日

◆薩摩藩の奄美・琉球侵略400周年

仙田隆宜


<本稿は9月18日夕刊の全国版「頂門の一針」(1674号)に掲載され、全国に発信されました>

奄美の島々の人間として忘れてはならないのが、400年前の「1609年」です。1609年に何があったのか。おそらく多くの人たちは、この年から奄美で始まった「歴史的事実」をご存じないでしょう。

そこで、1609(慶長14)年の3月4日のことです。

薩摩藩の総大将樺山権左衛門久高が、副将平田太郎左衛門尉増宗と共に、軍船100余艘、兵3000人を率いて薩摩藩の山川港を出帆しました。

3月7日に同軍は、奄美大島笠利に到着。龍郷湾、焼内湾、瀬戸内と大島各地を攻め、奄美大島との戦闘を始めたのです。

大島を攻め落とすと薩摩軍は、勢いに乗って同20日に徳之島・秋徳港(現在の亀徳港)に侵略。ここでは島民の必死の抵抗による戦闘が繰り広げられたのですが、大軍には勝てず、島民数百名の犠牲者が出て敗れました。

その後、薩摩軍は沖永良部を経て、沖縄・運天港に至り、さらに南下して首里・那覇での攻略の末、4月4日に沖縄を攻め落としています。

この1609年の薩摩軍による侵略以降、奄美は苦難の歴史を歩むことになります。いや近世以降も同じ苦しみの中にあったともいえるのです。

薩摩藩が奄美を狙った、藩をあげての戦略には、奄美特産の黒糖に目をつけたことが上げられます。1745年には税の貢租換糖上納、1777年には第1次砂糖惣買入れ制、第2次(1818年)、第3次(1830年)と、相次いで奄美黒糖を独占する強硬策を敢行し続けたのが、何よりの証なのです。

この奄美の人たちへの圧制と経済的な搾取はあまりにも悲惨で、このために奄美は止む無く薩摩に屈せざるを得なくなったのです。

この「水も漏らさぬ」徹底した黒糖収奪により、自藩の藩政基盤を築き上げた薩摩藩は、幕末には天下の雄藩として名を馳せ、明治維新の旗手となり得たのです。

つまり、薩摩藩が明治維新でリーダーシップを取れたのも、奄美の植民地支配に手を付けたことが大きな要因である「歴史的事実」が浮かび上がってくるのです。

明治になっても「黒糖収奪の基本的な構造」を変えようとせず、さらに1868年から50年間、奄美独立経済論という「差別政策」を続けて遂行してきています。

ところが、こうした薩摩藩による奄美植民地支配の歴史は、今日の鹿児島県で語られることはほとんどなく、歴史の闇に葬り去られています。

私たちは、薩摩藩による奄美・琉球侵略400年目の今年を捉えて、この「歴史的事実」としっかり向かい合い、専門的な研究による具体的な検証の検討を始める必要があると考えたのです。

このため、2009年10月3日(土・旧暦の8月15日・十五夜)、午後2時から鹿児島県の県教育会館3階大ホールで、『薩摩藩による奄美・琉球侵略400年記念・奄美の未来を考える集会』を開催することしました。

つまりこの『集会』では、私たちの400年にわたる祖先の無念に思いを馳せ、同時に、未来を生きる奄美の次世代の人たちに輝かしい希望と生き甲斐の道を示そうと企画したものです。

私たちは行政や特定の団体の支援を得ることなく、奄美に関心を寄せて頂く多くの賛同者が集って、こうした歴史を振り返るシンポジウムをはじめシマウタ・踊りを楽しむ会等を実施し、「奄美の歴史を正しく知って貰う」会合として、奄美の人々は勿論、鹿児島県人、全国の方々にも訴えたいと思っています。

どうかこの趣旨にご賛同頂き、この集会に多くの方が参加してくださるよう願っております。(完)

『薩摩藩による奄美・琉球侵略400年記念・奄美の未来を考える集会』実行委員会・委員長

詳細チラシ(PDFファイル)←クリックして表示



◆全国版「頂門の一針」夕刊.1674号の記事内容は、下記の通りです。

 同号<目次>

・習近平の次期総書記、国家主席が確定:宮崎正弘
・時代錯誤の情報統制:平井修一
・矛盾だらけの3党合意:丸山公紀
・薩摩藩の奄美・琉球侵略400周年:仙田隆宜
・全てを自力でのアメリカ人:前田正晶

・話 の 耳 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

・ 訃報:伊藤竹美君

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 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm
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