2009年10月11日

◆「日本の一番長い日」にリセット(4)

藤本 敬八郎
 

朝野は、ほどなくして母国韓国釜山へ帰っていった。再び一人ぼっちになった私の一日は、遅い起床で始まる。ぼんやりとした脳、緊張の欠けた行動で食堂へ行く。指定席には定番のうどんと漬物が置いてある。

時がたっているから汁を吸った麺は丼鉢の中で一個の塊になっている。箸でほぐして食べるがうまいはずがない。生徒も勝手気ままな生活リズムなら、賄い方も温かなサービスのトッピングは毛頭ない。物資だけでなく人間関係の潤滑油も品切れてしまっている。

青雲塾では夕方になると小鳥に混じって、野鳩のボーボと親を呼ぶような啼き声を聞くことが日課になった。寄宿舎周辺の樹々は鳥たちの楽園で、一人ぼっちの私を慰めてくれた。

異郷にあって祖国の敗戦という事実はまさに驚天動地、全てが狂ってしまった。

親からの送金も音信も途絶えてひさしく、お互い生死すら判らないまゝである。親の心情は何倍にも優しく強いのに、子どもの私は薄情で淡白なものであった、と、今にして申し訳なく思う。

残留孤児となって中国の土となるか、それともなにかの手段で祖国の地を踏むのか、明確な策はまだ持てなかった。身軽に動ける日のために身辺整理をしておくことに気付いたが、相談する友はもういない。実行力に乏しい普通の少年が、命の保障さえない危険な行動にでてしまったことを述懐しなければならない。

寄宿舎生活の中学生の財産など多寡がしれているが、集めてみると大風呂敷に2つはある。制服は夏冬各2 揃、各種下着類、革靴に運動靴、遠征用登山靴もある。鞄、書籍、辞書。外套、防寒帽と手袋は必需品。高級万年筆とシャープペン等々いっぱい出てくる。最小限必需品を残すと、もう露天商気分で、売上の皮算用。

万が一、学校関係者や邦人に出くわすと面倒なことになるから、首義門付近の繁華街や兵器廠のある大北門あたりは鬼門と考えた。が、身の安全を考えれば、全く逆の発想でなければならないのに私は、一度も踏み入れたことのない、いくらか寂れた大南門(迎澤門)付近を選んでしまった。

売れ筋の物を風呂敷に一包にして太陽を頭上に頂く頃、塾を出た。土埃りのする道の一角、アカシアの木陰で風呂敷を広げ、その上に『商3品』を並べる。露店商よろしく腰を据え往来を行き交う人を眺めても、さすが邦人らしい人影は一人としていない。

異常なものに物見高いのはこの時代この地の人の常であるらしい。2 人3 人と集まってくる。「売り物か? 」と問いかけがくる。

私は日常会話程度は話せていたので値段の交渉がはじまる。日本製品は今日同様彼等の購買心を刺激するようであった。需要と供給の原理原則は、商取引の基に平和的最低限の約束項を守ることで成立するものである。私の顧客は一人としてこれを裏切らなかったし、14 歳の日本の少年を一己の人格として接してくれた中国の人々は、矢張り大人たいじんであった。

杜子春とししゅんA が見たような夕陽を、西の空に眺めるころには完売であった。太原の懐かしい古城のほとりとアカシアの並木道を回想しながら、いま、自分の愚かな行動を反省している。

例えば、である。

こんな付録のようなことで、恐いおあにいさんとチンピラ2,3 人が出てきて「誰の許しで店を張っているのだ! 」とショバ代を巻き上げられ、傷のひとつもつけられたり、簡単に消されかねないご時勢であれば、15 歳で命を落とした南洋先輩のように、いや、私には祖国独立のためという美しい志もなく、ただの犬死であったと陰で蔑まれたことになったであろう。

世界の裏事情に詳しいTV番組をみるにつけ、自分の無知が危険と事故の隣り合わせで居たことを思い出してしまう。あの動乱の時代を、それも独りで無事に渡ってこられたことを、諸々に感謝せずにはおれない。 (つづく)
           (神戸「行雲誌・執筆者」)

◆注 @ 首義門:城壁は明王朝期(1368~1644)に築造され、万里長城
の技法をしのばせる黒レンガ造りの堅牢なもの。南壁東にこの門は位
置する。同西には大南門を擁するが、解放後はこの城門も取り壊され
歴史的文化財は消滅した、ときく。

A 杜子春:芥川龍之介の短編小説に登場する主人公のなまえ。
参考文献:太原中学校同窓会刊行書・広辞苑

◆<同稿--関連記事>
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