2009年12月12日

◆パン知らずの子供

渡部亮次郎

食パンの消費量は近畿地方が圧倒的に多く、近畿地区2府4県すべてが上位10都道府県内に入っている。またパン食の多い近畿地方では廉価品よりも高級品、薄切りより厚切りの方が多く売れる。

私が生まれて初めてパンと出合ったのは高校に入学した1951年、16歳の春だった。校内の売店で買ったコッペパンであった。また蕎麦やうどんと出合うのは大学に入って東京暮らしを始めてからだった。

詰まり米単作地帯の農家にとって、米飯以外のものは、すべて現金を消費するものである以上、パンや麺類は「贅沢品」。高校生と言っても、現金は一切持たされなかったから「蕎麦屋」にはいることもなかったわけである。尤もパンは戦中戦後、田舎にはなかった。

だから身体に染み付いた習慣は、パンや麺類は米飯の代用食、コメの飯が無いから、止むを得ず食べるものと言う感覚が抜けず、未だに食パンを食卓にのぼせることはない。

2キロばかり先の浅草や向島に出かけても、蕎麦屋に入るのは10回に1回ぐらい。殆どはトンカツ屋か洋食屋。浅草や向島は田舎者相手だから、実に美味しいメシ屋があって重宝だ。

ところでパンだ。日本では、古くは「蒸餅」、「麦餅」、「麦麺」、「麺包」とも表記したが、現代日本語ではポルトガル語のパン(pao)に由来する「パン」という語を用い、片仮名表記するのが一般的である。

フランス語(pain)やスペイン語(pan)でもパンという。また日本語を経由する形で、日本による植民地支配が長かった台湾でも、台湾語、客家語などでパンと呼び、韓国でも、韓国語でパンと呼んでいるが、これも日本統治時代に日本語を経由して借用されたと考える説がある。

ポルトガルの宣教師によって日本へ伝来したのは安土桃山時代だが、江戸時代に日本人がパンを食べたという記録はほとんど無い。

一説にはキリスト教と密着していたために製造が忌避されたともいわれ、また、当時の人々の口には合わなかったらしい。

江戸時代の料理書にパンの製法が著されているが、これは現在の中国におけるマントウに近い製法であった。徳川幕府を訪れたオランダからの使節団にもこの種のパンが提供されたとされる。

1718年発行の『御前菓子秘伝抄』には、酵母菌を使ったパンの製法が記載されている。酵母菌の種として甘酒を使うという本格的なものであるが、実際に製造されたという記録はない。

日本人が、最初にパンを焼いたのは江戸時代の末の江川英龍とされ、彼をパン祖と呼ぶ。

日本人にパンが広く受け入れられるのは明治時代の「あんパン」の発明からである。軍隊ではその場で調理する必要のないパンは常食として使われてきた。日本においては、特に惣菜パンや菓子パンと呼ばれる具入りのパンが発達している。

現在、日本においてパン食の割合が特に高いのは近畿地方で、阪神間モダニズムの影響と考えられている。朝食はいつもパンという関西人は少なくない。

パンの重量を均一に製造するのは困難であるため1斤の重さは350〜400グラムとするのが一般的であり、公正競争規約では340g以上と定められている。

日本では敗戦後、サンドイッチを食べる占領軍兵士へのニーズから8枚切りにスライスした状態で食パンが売られるのが一般的となったがその後食パンの食感が日本人好みに調整されるにつれ、その厚さは地域によってまちまちとなった。

主に近畿地方ではトーストにして食べるのに適した6枚切りや5枚切り・4枚切りなどの厚切りが定着した。

食パンの発祥国、イギリスでは日本の8枚切りよりさらに薄いものが一般的である。

40歳前後、大阪に3年暮らしたが、パンを食べた事は1度も無い。
(「ウィキペディア」)2009・12・06
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