2009年12月15日

◆日比谷公会堂の80年

渡部亮次郎

今年、創建80年を迎えた日比谷公会堂は、殺された大富豪安田善次郎の法外な寄付によって建てられたものである。市政会館に付属している。

東京市長でもあり、中立な市政のための調査機関の必要性を訴えていた後藤新平の主張に大富豪安田善次郎が共鳴、当時としては巨額の350万円を寄付して、「市政調査会(市政会館)」およびそれに併設する公会堂として計画された。

建物は指名設計競技で一等となった佐藤功一の設計になるもので、
1929年に竣工した。現在も同建物(市政会館)内に財団法人・東京市政調査会がある。ちなみに開場式で、新聞を破いた音が参加者全員に聞こえたという。音響効果が良いことを証明した。

完成 1929年10月19日 開館 1929年だから、2009年の今年は80周年の記念の年だったのだ。

鉄筋コンクリート造4階建て、面積6,032m2
定員2,074名(1階1,052席、2〜4階1,022席、車椅子対応席11席)2 - 4階は同一フロアである

設備 日比谷公会堂・日比谷公園大音楽堂
用途 演劇、講演会、集会 等
運営 日比谷公会堂・大音楽堂管理事務所
所在地 東京都千代田区日比谷公園1-3

かつて、東京では事実上唯一のコンサートホールとしてプロフェッショナルのオーケストラの演奏会やリサイタルなども多く開かれたが、次第に影が薄くなっている。

東京文化会館をはじめにNHKホール、昭和女子大学人見記念講堂、サントリーホール、東京芸術劇場、オーチャードホールといったコンサート専用ホールやコンサートに使用可能な多目的ホールが整備されるに従い、コンサートホールとしての地位は低下して行く。講演会、イベントなど音楽会以外の利用が増え、クラシック音楽の演奏会はほとんど開催されなくなった。

この状況を憂う文化人が再興を提唱し、2007年秋、井上道義指揮によるドミートリイ・ショスタコーヴィチの交響曲全曲演奏会「日露友好ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクト2007」が開催された。

一方、通りに面した、市政会館。1936年に誕生した同盟通信社は、当初は前身の新聞聯合社や日本電報通信社の社屋を本社としていたが、業務の拡大で社屋が手狭になったことから、1942(昭和17)年1月11日に同会館に移転した。

1945(昭和20)年、日本がポツダム宣言を受諾したことを受けて同盟通信社が共同通信社と時事通信社とに分社すると、両社が引き続き本社として使用した。

のちに共同通信社は、港区の共同通信会館に移転するが、時事通信社は会館に残った。しかし、2001(平成13)年に電通が東証1部に上場すると、大株主である時事通信社は保有する電通株の一部を放出。売却益を基にして新社屋に移転した。

1999(平成11)年6月11日に、東京都景観条例に基づき「東京都選定歴史的建造物」となった。また2003(平成15)年6月9日、千代田区景観まちづくり条例に基づき「景観まちづくり重要物件」に指定された。

ところで、日米安保条約の改訂で国中が大騒ぎした「60年安保」。その最中の1960年、浅沼稲次郎暗殺事件は、この日比谷公会堂での出来事である

1960年10月12日午後3時頃)、日比谷公会堂において、演説中の日本社会党(当時)委員長・浅沼稲次郎(あさぬまいねじろう)が、17歳の右翼少年・山口二矢(おとや)に暗殺された。

10月12日、日比谷公会堂では、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会(東京選挙管理委員会等が主催)が行われていた。会場は2500人の聴衆で埋まり、民社党委員長・西尾末広、社会党委員長・浅沼稲次郎、自民党総裁・池田勇人の順で登壇し演
説することになっていた。

浅沼委員長は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。浅沼が演説を始めた後右翼団体の野次が激しくなり、ビラを撒く者も出た。

司会のNHKアナウンサー・小林利光が自制を求めると、場内には拍手が起き、一瞬野次が止まった。それを見計らって浅沼は自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。

浅沼が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙で多数を占むると…」と発言した午後3時5分頃、突然17歳の少年・山口二矢が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り33センチメートルの短刀(のちに銃剣と判明)で浅沼の胸を2度突き刺した。

浅沼は、刺された後によろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられてただちに病院に直行した。秘書が浅沼の体を見回し、出血がなかったことから安心した。

しかし実は一撃目の左側胸部に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって大動脈が切断され、巨漢の脂肪で外出血はせず内出血による出血多量によりほぼ即死状態(側近によれば、運ばれる途中踊り場で絶命したという)で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していた。

山口二矢はその場で現行犯逮捕、11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、白い歯磨き粉を溶いた液で書いた「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)の文字を監房の壁に残した後、自殺した。

この事件で警視庁は、大日本愛国党総裁である赤尾敏(当時61歳)を威力業務妨害容疑で逮捕した。

公党の党首に対する攻撃を防げなかったとして山崎巌国家公安委員長が引責辞任。この事件を機に、刃物の追放運動が全国に広がるようになり、また要人警護の手法が“目立たないように”から“見せる警護”へと改められることになった。2009・12・13
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


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