2009年12月20日

◆殺された大富豪安田善次郎

渡部 亮次郎

安田 善次郎(やすだ ぜんじろう、天保9年10月9日(1838年11月25日) - 大正10年(1921年)9月28日)は、富山県富山市出身の実業家。幼名は岩次郎。安田財閥の祖。前衛芸術家オノ・ヨーコの曽祖父で、レノンとヨーコの息子ショーン・レノンにとっては高祖父にあたる。

ヨーコの従弟である評論家の加瀬英明は安田との血の繋がりは無い。

当然、私にとって安田は何の関係も無いが、今の住まいの近所に旧安田庭園が有り、このような大富豪だったのに殺されたと知って、興味がわいた。

東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂、千代田区立麹町中学校校地は安田善次郎の寄贈によるものである。 富山市愛宕町にある安田記念公園は安田家の家屋があったところを整備された公園であり、東隣には住居表示実施後に誕生した安田町がある。

東京・墨田区の 旧安田庭園は、安田が所有していたためその名を残している。

旧安田庭園 (きゅうやすだていえん)は、東京都墨田区横網1丁目12番1号に所在する、潮入り回遊式庭園として整備された大名庭園である。

小島の浮かぶ心字池を老樹と散策路が囲む構成。 雪見灯篭が配置され、池には鯉、亀が遊ぶ。 人工的に水位の干満が再現されている。 無料で開放されている。


江戸時代は、本庄氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷。元禄年間に、本庄宗資により大名庭園として築造された。 安政年間に、隅田川の水を引いた潮入回遊庭園として整備された。

明治に入り、旧岡山藩主池田章政の邸宅となる。 明治22年、安田財閥の祖である安田善次郎が所有することとなった。 大正11年、彼の遺志により東京市(当時)に寄贈された。

翌大正12年、関東大震災によりほとんど旧態を失ったが、東京市により復元され、昭和2年、市民の庭園として開園。 昭和42年、東京都から墨田区に移管され、現在は墨田区が管理する。

かつては隅田川の水を取り入れ、隅田川の干満を利用し、眺めの変化を鑑賞する庭園であった。

このような潮入の池をもつ庭園として他に浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園がある。 隅田川の汚れが園に及ぶようになったため直接の接続は停止されている。 現在は、園北側の地下貯水槽(貯水量約800トン)を利用し、ポンプで潮入が再現されている。

所在地―東京都墨田区横網一丁目12番1号
利用時間―午前9時から午後4時30分まで
休園日―2月29日から1月1日まで
入園料金―無料
交通:JR総武線両国駅下車徒歩7分 都バス両国公会堂停留所下車徒歩1分 石原一丁目停留所下車徒歩7分 横網一丁目停留所下車徒歩5分

ところで安田善次郎は富山藩の下級武士(足軽)善悦の子として生まれた。安田家は善悦の代に士分の株を買った半農半士であった。21歳の時、奉公人として上京。

最初は玩具屋、ついで鰹節兼両替商に勤めた。やがて安田銀行(後の富士銀行、現在のみずほフィナンシャルグループ)を設立、損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社(現在の明治安田生命保険)を次々と設立し、金融財閥としての基礎を築く。

自分の天職を金融業と定め、私的に事業を営むことを自ら戒めたが、同郷だった浅野総一郎の事業を支援するなど事業の育成を惜しむことは無かった。

現在の鶴見線である鶴見臨港鉄道の安善駅は、安田善次郎の名前に因む。また日本電気鉄道や、帝国ホテルの設立発起人、東京電燈会社や南満州鉄道への参画、日銀の監事など、この時代の国家運営にも深く関わった。また、チェス嫌いとしても有名である。

1921年9月27日、神奈川県大磯町字北浜496にある別邸・寿楽庵に、弁護士・風間力衛を名乗る男が現れ、労働ホテル建設について談合したいと申し入れたが、面会を断られた。

この風間力衛は実在の人物であるが、神州義団団長を名乗る朝日平吾(1890-1921)が勝手に詐称しただけであり、風間本人は事件と何の関係もない。

翌日、門前で4時間ほどねばったところ、面会が許された。午前9時20分ごろ、この朝日平吾に安田は刺殺された。朝日はその場で、剃刀で首を切り自殺した。

所持していた斬奸状に曰く、「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ。国家社会ヲ無視シ、貪欲卑吝ニシテ民衆ノ怨府タルヤ久シ、予其ノ頑迷ヲ愍ミ仏心慈言ヲ以テ訓フルト雖モ改悟セズ。由テ天誅ヲ加ヘ世ノ警メト為ス」

満82歳没。戒名は正徳院釈善貞楪山大居士。1ヶ月後の原敬首相暗殺は、この事件に刺激を受けたものといわれる。

1921年11月4日、原 敬首相は京都での立憲政友会京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口の改札口へと向かっていたところ、午後7時25分頃、突進してきた中岡艮一(こんいち)に短刀を右胸に突き刺された。

原はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受けたが、すでに死亡していた。突き刺された傷は原の右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。

逮捕された艮一は、死刑の求刑に対して、東京地裁で無期懲役の判決を受けた。その後の東京控訴院・大審院でも判決は維持され確定した。

この裁判は異例の速さで進められ、また調書などもほとんど残されていないなど謎の多い裁判であり、その後の艮一の“特別な”処遇(3度もの大赦で1934年には早くも釈放された。

戦時中には比較的安全な軍司令部付の兵となっていたなどとあいまって、本事件に関する政治的背景の存在を推測する論者も多い。

艮一が原を暗殺するに至ったきっかけははっきりとは分かっていないが、前述した原の政治に対する不満のほかに、以下のような話もある。

玄洋社などの当時の右翼勢力と関係があったという説。有名な右翼テロリスト五百木良三が犯行を予言していたことや、右翼が好んでいたとされる短刀での犯行手口などが根拠となっている。

犯行の1カ月前、艮一と上司・橋本との政治談義の中で原政治の批判になり、橋本が「今の日本には武士道精神が失われた。(政治家は悪いことをした時に、責任を取るという意味で)腹を切ると言うが、実際に腹を切った例はない」というような主旨のことを言ったのに対し、艮一が「腹」と「原」を誤解し、「私が原を斬ってみせます」と言明したとい
う。

このため、橋本のその言葉が事件の直接的なきっかけとなったとして、橋本も殺人教唆の疑いで逮捕されたが、判決は無罪であった(求刑は懲役12年)。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2009・12・11

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