2010年01月04日

◆吉田茂の特別食は「人」

渡部亮次郎

吉田茂は妻の雪子を1941(昭和16)年に亡くしていたが、まもなく愛人の芸者で花柳流の名取でもあった小りん(本名:坂本喜代)を大磯の自邸に招き入れて生活を共にし始めた。

ただし岳父・牧野伸顕の手前もあり、世間体をはばかってこのことは極秘にしていたのだが、10日と経たないうちに新聞記者に嗅ぎつかれて垣根越しにスクープ写真を撮られてしまった。

吉田はこの時の恥辱を後々まで根に持って、カメラマンには良い感情を持っていなかったのである。ただし小りんとの関係が公表されてしまったおかげでかえって世間体を気にする必要もなくなり、1944(昭和19)年には晴れて彼女と再婚している。

かつて石川県選出の参議院議員だった林屋亀次郎は、小りんと親戚だった関係で、大磯の吉田邸に出入りを許されていた。その林屋に言わせると、吉田が健康の素としていた「人を食っている」からは
もはや口癖になっていたという。

1964(昭和39)年11月の宮中園遊会で、昭和天皇が「大磯は暖かいだろうね」と吉田に呼びかけた。吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わせている。

日米修好通商百年祭に日本の代表として訪米し外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつき良くないし、口は美味いもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」。

特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問には「はい、強いて挙げれば人を食っております」とすました顔で即答した。

米寿をすぎてもまだ矍鑠としていたが、ある日、大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。

そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった(戸川猪佐武「小説吉田茂」あとがき)。

「人を食う」とは人を小ばかにしたような言動をとること。

1946(昭和21)年4月10日、戦後初の総選挙が行われた結果、旧政友会系の日本自由党が比較第一党となった。自由党総裁の鳩山一郎はただちに組閣体制に入ったが、5月4日になって突然、GHQから鳩山の公職追放指令が送付された。

毎晩のように吉田のもとに押し掛けて後継総裁を受けるよう吉田を口説き、ついにはその気にさせてしまったのが、その手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた元政友会幹事長の松野鶴平だった。鳩山内閣の官房副長官松野頼久氏の祖父である。

吉田は、蓋を開けてみると松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、

「金作りは一切やらない
閣僚の選考に一切の口出しは無用
辞めたくなったらいつでも辞める」
という勝手な三条件を提示して鳩山を憤慨させている。

しかし総選挙からすでに1ヵ月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くか分らなかった。吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。

5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した。吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した。

自由党総務会で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここに第1次吉田内閣が発足した。戦後政治はここに始まる。

自由党入党・総裁就任後の吉田は、多くの官僚出身者を国会議員に引き立てた。吉田は1949(昭和24)年の第24回総選挙の勝利と第3次吉田内閣の組閣を通して、自由党(民主自由党)内を完全に掌握した。こうして「吉田ワンマン体制」が確立した。

吉田ワンマン体制の中で側近として大きな位置を占めたのが官僚出身者を中心とする国会議員たち、すなわち「吉田学校」と呼ばれた集団である。

官僚出身者では、大蔵省の池田勇人、運輸省(元鉄道省)の佐藤栄作がその代表的人物(共に次官経験者である。現在は、事務次官を経て内閣総理大臣に就任するのは不可能に近い)。

吉田が登用した人材は全部が全部成功したわけではないが、戦後、保守政治の中で中核を担うこととなり、後の保守本流を形成する。また、吉田の人物に対する鑑定眼が高い評価を受ける所以ともなった。

1951年9月8日、日本はサンフランシスコ講和会議で吉田を首席全権とする全権団を派遣、講和条約にも吉田を筆頭に、池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)の6人全員で署名した。

講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。

吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。

ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約にたった一人で署名した。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。

復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬に参列した。(「ウィキペディア」)2010・1・3


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