2010年01月24日

◆唐招提寺建立の中国僧

渡部 亮次郎

日本から、昔、遣唐使と言って、中国へ留学した者は多かったが、逆に日本に布教に来て骨を埋めたのは鑑真(がんじん)ただ一人だ。

奈良時代の話。私は若い頃、大阪に3年も勤務したが、仏教など宗教のことは全く勉強しなかったので知らなかった。。

その後、NHK政治記者を辞め、外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結に携わった際、奈良の友人から詳しく聞いて初めて知った。

688年(持統天皇2年)―763年6月25日(天平宝字7年5月6日)日本における律宗の開祖となった。俗姓は淳于。

揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡と普照の訪問を受け、授戒のできる僧を是非とも日本へ派遣してくれるように懇願された。

要請を聞いた鑑真は、最終的に自らが日本へ行くことを決意し、日本への渡海を5回にわたり試みたが、ことごとく失敗した。

当時、唐の皇帝は、高名な僧である鑑真を国の宝として扱い、唐からの出国を固く禁じていたためでもあった。日本への渡航については密航という手段を取らざるを得なかった。

最初の渡海企図は743年夏のことで、この時は、渡海を嫌った弟子が港の役人に「日本僧は実は海賊である」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された。鑑真は留め置かれた。

2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった。

再度、出航を企てたが、鑑真の出国を阻止しようとする者の密告により栄叡が逮捕され、3回目も失敗に終わる。

753年に遣唐使が帰日する際、副使の大伴古麻呂が密かに鑑真を乗船させた。11月17日に遣唐使船が出航、ほどなくして暴風が襲い、清河の大使船は南方まで漂流した。

だが、船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津に無事到着、実に10年余の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は、宿願の渡日を果たすことができた。

来日早々の753年(天平勝宝5年)12月26日、鑑真は太宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、754年(天平勝宝6年)1月には平城京に到着し聖武上皇以下の歓待を受けた。

孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400人に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢であ
る。

同時に、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。

759年(天平宝字3年)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に
取り組んだ。

763年(天平宝字7年)唐招提寺で死去(入寂)した。76歳。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆 彩色 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法 両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)。

これが日本最古の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10年)、淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。
2010・1・12

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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