2010年02月09日

◆白河以北一山百文

渡部亮次郎

「しらかわ以北 ひとやま ひゃくもん」。日本人の東北に対する侮蔑意識はここから始まったのではないか。

戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際に勝者となった薩長中心の官軍・新政府勢力が、 朝敵となり敗者となった東北諸藩を嘲弄するためのスローガンだった。

戊辰戦争(慶応4年/明治元年 ―明治2年(1868年 ―1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が薩長土肥の軍事力を用いて、親江戸幕府勢力(佐幕派)を一掃した日本の内戦。慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められた。(『ウィキペディア』

「白河以北一山百文」とは、 「東北なんぞは山一つでも百文しか価値がない、という意味。 現に明治政府は東北、新潟を、嘲弄、侮蔑を根底に持った国づくりをした。

東北新幹線で東北へ向かえばはっきりする事だが、福島県の白河で天気ががらりと変わる。それまで関東並みに快晴だった空が、突然曇天になる。さらに進むと雨になったりする。

逆に上りに乗ると、陰鬱な曇天が白河辺りから、快晴になって気持ちまで明るくなる。当に白河は関東と東北の分岐点に違いない。このように東北は気象条件にまで恵まれていない。

平民宰相といわれた日本で最初の政党内閣の首相、原敬(はら たかし)は南部藩の士で盛岡の人だ。

東北戊辰戦争の際、生保内口から始まり、鹿角口、大館、能代など、
秋田藩深くまで斬り込んだ南部軍。それを率いた家老楢山佐渡が
薩長に屈服して盛岡の報恩寺で切腹したとき、14歳の原敬は人目もはばからず寺の塀沿いを「満眼に悲涙をたたえて歩いた」というエピソードが残っている。 このときの原の反骨が東北人なのである。

戊辰後の人生は藩閥への挑戦に貫かれた人生だった。 彼の悲願は東北に対して「白河以北一山百文」などという薩長主体の藩閥政治を打倒し、政党による政治体制をつくること。 その彼の雅号が「一山(ichizan)」である。

原敬首相が、1921年に凶弾に倒れたときに、地元、盛岡の新聞が「明治維新以来、一山百文と称され屈辱を忍んできた東北が、原の政界雄飛によって名誉を挽回できた」と記した。

日本が1960年代、急激な経済の高度成長を達成したとき、気象条件の良くない、東北の日本海岸には、碌な工場進出は無く、役立ったと見られたのは中学生、高校生の「集団就職」に代表される「若年新鮮労働力」の供給だけだった。

今、東北の農村には過疎と老齢者しか残っていない。老人は集団就職した子供のところへ身を寄せ、なれぬ都会で「群集の孤独」に身を横たえている。

池田勇人内閣の「月給倍増」政策も、東北を素通りして現在に至る。
これに叛旗を翻したのは新潟出身の政治家田中角栄だった。

彼は日本アルプスが阻んで雪を大量に日本海側に置き去りにし、貧困を助長することを考えれば日本アルプスを削除してしまえと、叫んだ。日本列島「改造」の意味だった。

河合ブルドーザーの河合良成もそういった。しかし、東北選出の国会議員が挙って角栄を支持したかというと、そうではなかった。角栄氏の戦略、戦術が、自民党総裁の椅子獲得最優先で、東北開発の戦略が見えなかったのである。

彼に優れた政治哲学があれば、角栄こそは「第二の原 敬」になり得た。角栄の弟子を自称する小澤一郎氏は、角栄にはあった東北への愛情が無い。岩手を東北をゼニゲバの舞台にしている、ただの「利権」代議士に過ぎない。

そういえば原は「去る者は追うべし」といい人材を集める事に腐心したが小澤氏は「去る者は追わず」だからブレインはおらず、ゴマすりばかりである。2010・2・6
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