2010年02月23日

◆園田をたじろがせたヘイグ

渡部亮次郎

<唯一、園田外務大臣をたじろがせた男の死が21日、ひっそりと産経新聞の国際蘭で寂しく報じられた。レーガン米政権で国務長官を務めたアレグザンダー・ヘイグ氏。20日、感染症による合併症のため、米メリーランド州ボルチモアの病院で死去した。85歳だった。

鈴木善幸政権時、レーガン政権の国務長官に就任、日本の防衛費の飛躍的増額要求を表明。マニラでの初会談を前に、あの強気で通った園田氏をたじろがせた。

園田氏死して既に26年だが、園田氏はあの世でもヘイグ氏にたじろぐだろうか。いや、会談してみたら、戦闘士としては自分がはるかに上だったことを確認できたのだったから、もはや、絶対たじろぐような事は無いはずだ。>(「頂門の一針」2月22日號)

ヘイグ死は1924年生まれ。園田氏は1913年生まれだから、園田が一回りも年上だったのに、たじろいだのは就任したばかりのレーガン政権を背景に、日本に対する防衛予算の莫大な増額要求の圧力の為だった。

園田氏は既に外務大臣を福田、大平の両政権で務めた後、鈴木政権では、厚生大臣のピンチヒッターとして入閣した後、日米首脳会談に伴う共同声明を巡って引責辞職した伊東正義外務大臣の後任として3度目の外務大臣に横滑りしたばかりであった。

鈴木・園田の交流は河野一郎時代は全く無かったが、「三木降し」で急速に接近、ポスト三木で「福田・大平2年後に政権譲渡」の密約交渉で深い関係が成り立った。

一方のヘイグ氏。陸軍軍人として朝鮮動乱、ヴェトナム戦争に従軍。ニクソン、フォード両政権で首席補佐官、北大西洋条約機構(NATO)の最高司令官を務めた。

そうした経歴を背景に、この年(1981)発足したレーガン政権に国務長官(外務大臣に相当)として入閣、日米安保体制のもと、日本の国防予算の格段の増額を要求するレーガン大統領の尖兵として初の日米外相会談を行なうべく、フィリピンの首都マニラで待ち受けていた。

鈴木総理のヨーロッパ訪問に同行していた園田外相は、ドイツ、スイス、ブリュッセル、香港を経て6月18日、マニラ着。19日はマルコス大統領を表敬訪問した後、現地時間の午後1時からフィリピン・プラザ・ホテルのスイートでヘイグ氏と相対した。

会談前はやや緊張気味だった園田氏だが、ヘイグ氏の要求する、韓国防衛に関する防衛費の負担については、筋論を展開、結論を急ぐヘイグ氏を押さえ込んだ恰好で、1時間は過ぎた。ヘイグ氏に言質を与えなかったのである。

結論を先に言えば、鈴木総理は翌年、突如、退陣。この問題は次の中曽根政権の宿題として持ち越され、中曽根氏が、瀬島龍三氏を韓国に派遣するなどして解決した。

それ以前に園田氏は11月の内閣改造で下野、急速に健康を害し、人工透析を余儀なくされ3年後の1981年4月2日に、僅か70で死んだ。

一方、この会談を機会に園田外相の表敬訪問を受けたマルコス大統領は予め我々をマラカニアン宮殿での歓迎晩餐会に招待すると飲申しいれ、ただし服装は白のタキシードに限るとのお達し。

主従ともにそれを新調して晩餐会に臨んだが、白のタキシードなど
この時以外に用は無く、いまでは何処へ行ったかも分からない。

園田氏の死に先立ってマニラでは2月25日、コラソン・アキノ女史が大統領就任宣誓を行い、大衆によってマラカニアン宮殿に包囲されたマルコス夫妻はアメリカ軍のヘリコプターで脱出、ハワイに亡命した。

その後、マルコス氏は1989年に亡命先のハワイ、ホノルルでイメルダ夫人に看とられながら病没した。20年にわたる大統領在任中に多額の国家資産を横領したとされるが、全容ははっきりと分かっていない。(「ウィキペディア」)

ヘイグ氏の訃報に接し、こうして29年前を思い出した。お退屈様。
2010・2・21
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック