2010年03月06日

◆長谷川平蔵と遠山金四郎

渡部 亮次郎

鬼平こと長谷川平蔵と遠山金四郎の住居跡が隅田川岸に程近い墨田区菊川にある。散歩の途中、何気なく通り過ぎていたが、良く見ると東京都墨田区教育委員会の指定とあるから冗談ではないのだろう。
 
今時、鬼平とか鬼平犯科帳、桜花の刺青・遠山の金さんと言っても時代劇を読んだり見たりしない人には何のことだか判らない。そういう私も池波正太郎(故人)の傑作「必殺仕掛人」を、たまたま読むまでは何の興味も知識もなかった。
 
池波描く仕掛人の舞台は下町(浅草、下谷、神田、京橋、日本橋)と山の手の一部だが、鬼平こと長谷川平蔵も遠山も住んでいたのは隅田川を挟んで「川向こう」と呼ばれていた墨田区である。

しかも2人は時代を超えて同じ場所に居を構えていたと教育委員会は言っている。
 
2人とも平凡社の世界大百科事典に載っている。平蔵の死ぬ2年前に遠山が生まれている。
 
長谷川平蔵1745-95。遠山金四郎1793-1855。平蔵は後に京都町奉行になる人の子供に生まれ、若くして火付け盗賊改加役に任ぜられる。警察官だ。

続いて無宿人(失業者)対策の一環として徳川幕府の計画した人足寄場取り扱いを命じられた。44歳だった。これはいまでいう職業安定署兼作業所みたいなものだろうか。

平蔵は「3ヶ月弱で施設を完成、収容者に生活を賄うに足る収入の得られる作業を与え、更生に務めた。しかし奇計の人とも言われた彼の人柄は老中松平定信と必ずしも相容れず、わずか2年半後の1792年に任を解かれ、以後は火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の職務に専念した。

犯罪人逮捕および裁判の面でも、敏腕を歌われている。林 由紀子」とかの事典にはある。
 
これだけのことから池波はどうやってあれだけのストーリーを紡いだのだろうか。鬼平犯科帳、剣客商売、必殺仕掛人。特に仕掛人といえば暗殺者である。江戸時代に暗殺商売があったか、なかったか。

なかったという証拠がないのだから有ったと言えるのかも知れないが、その証拠が残っていれば商売を上がったりである。そこが池波の目のつけどころである。
 
しかも現代にこれだけ愛読者がおり、若者にも広がっていると言う事は暗殺そのもののタネがそれだけ多いと言う事であろう。死刑廃止論の盛んな現代だが、その反面、裁判を長くすることが弁護士の務めだなどと論じる弁護士の出てくる時代。仕掛は今こそ必要だとの主張を聞く。
 
そこへ行くと花吹雪の刺青遠山の金さん好きは、まだ穏健派かもしれない。同じところで暮らしたが、平蔵よりは約50年遅く生まれた。名は景元(かげもと)号は帰雲。金四郎は通称。

武士の子に生まれ1840年、47歳で北町奉行となった。警視庁兼検察庁兼裁判所長というのだから恐ろしい権力のかたまり。後世、芝居や映画になるのだから封建体制のワクをはみ出す人だったのだろう。

事典でも上司の命令を握りつぶして処分を受けたことがあった。もともと老中(首相)水野忠邦や南町奉行とはそりが合わなかったようだ、とある。左遷されたが、水野の失脚後、再任された。

「名奉行として市井に知られ、奉行所内でも大岡忠相以来の裁判上手との評判であった」と事典にある。職を辞したノのは59歳。3年後に死んだ。
 
東京の銀座から日本橋を経て隅田川を渡ると江東区。橋は新大橋という。新しい橋かというとそうではなく江戸時代からかかっていた。赤穂浪士が吉良上野の首を担いで渡ったとある。

もともとの大橋に対して新大橋となっていたが、大橋が両国橋となったので、名前が孤立した。渡って江東区がすぐ墨田区に変わる。地形が入り組んでいるのだ。そこに長谷川平蔵と遠山金四郎の住居跡が新大橋通りに面してある。いまは歯科医院である。(03.10.12)

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