2010年03月26日

◆刺身・天丼・豚かつ

渡部 亮次郎

昔、政治記者だったころ、後に首相になる福田赳夫さんに、東京で出て来て何が一番美味しかったですか、と尋ねたら、「上野駅前で食べた刺身だった」といった。海の無い群馬県で育った。昔は運搬手段や冷蔵手段も少なかったから、上野の刺身は初物だった。

そういえば、同じ海無し長野県出身の倉石忠雄代議士と知り合いとなったが、腹が出てきたからダイエットすると減食を始めたら、栄養失調に陥った。蛋白質として主に摂取していたのが塩鮭。ご飯を抜いたら塩鮭も抜いたので蛋白質不足に陥ったのである。

新潟から小学校卒業だけで上京したのは、後に「今太閤」と呼ばれる田中角栄さん。何が美味しかったですかと尋ねたら「上野駅前の食堂で食べた天丼」との答えだった。昔の農家で天婦羅なんか揚げることはなかったから、天丼は初物だったのである。

そのあと角さんに銀座ですき焼きをご馳走になったが、砂糖抜きだったので塩辛くって往生した。しかし、彼にはこれが一番のご馳走らしかった。雪国は塩辛く育つ。だから脳梗塞で死んだ。

彼らと私は親子ほど年齢が離れているが、少年時代に対米戦争が行なわれていた関係上、食糧事情の貧しい暮らしが続いた。旧八郎潟沿岸で育ったため、魚(淡水魚)を生で食べる事は禁じられ、さりとて日本海の魚が新鮮な刺身状態で入手する事は不可能だった。

したがって天丼も刺身も少年時代には食べた記憶が無い。特に刺身を美味いと思った時は60を過ぎていた。

50を過ぎてから東京の下町に住むようになって、足繁く通うのは浅草や上野の「とんかつ屋」である。

<東京銀座の洋食店「煉瓦亭」が1904年に発売した「ポークカツレツ」がとんかつのルーツとされている。「とんかつ」を初めて売り出したのは、1929年、東京御徒町の洋食店「ポンチ軒」とされている。

「ポンチ軒」のオーナーの島田信二郎は、かつて宮内省の大膳部につとめるなど西洋料理の経験が豊かで、厚い豚肉に十分に火を通す独自の加熱調理法を考案した。これに刻んだ生キャベツを添えて「とんかつ」として売り出した。

1932年にはこれに続いて上野の「楽天」、浅草の「喜田八」がとんかつを発売。下町庶民の食べ物として育てられ、愛された。>その関係で上野や浅草にはとんかつ屋が多い。

井泉(いせん本店)上野広小路が行きつけである。注文してからテーブルに料理が届くまでの店員各人の隙の無い連携プレーはさながら芸術である。これを見るのも楽しみだ。

なお店の「いせん」。初代は俳句をよくし、萩原井泉水にあやかって「セイセン」の心算で暖簾を上げたが、下町の客は「せいせん」とは読めず、こちらも諦めて「いせん」で定着してしまったらしい。

<フランス料理の Cotelette に由来し、チーズをはさみ込んで揚げたコルドンブルーや、ミラノ風カツレツとして知られるイタリア料理のコトレッタ、ウィーン名物のシュニッツェル、ロシア料理のコトレータなども起源を同じくするとされる料理である。

日本におけるこの洋食は、1890(明治23)年に銀座のレストラン『煉瓦亭』が考案したものとして知られる。ポークカツレツはその後独自の進化を遂げ、とんかつと呼ばれる和食となり、また数多くの派生料理を生むこととになった。

カツレツの技法は、串カツやエビフライ、本来は異なる種類の料理であるコロッケなどにも応用されていった。現在では鳥獣肉のカツレツを「カツ」、魚介類や野菜を素材とする場合は「フライ」と呼び分けることが一般的であるが、ご当地料理においては例外が見られる)>
(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
2010・3・24
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック