2010年03月27日

◆ラ大使発言時の外相秘書官は私だった

渡部亮次郎

古森義久氏(現在は産経新聞記者としてワシントン駐在中)はレーガン共和党政権成立時の1981年5月、アメリカ民主党系の大手シンクタンク「カーネギー国際平和財団」に上級研究員として毎日新聞からの出向の形で勤務して、日米安全保障についての研究や調査に携わった。

その間の同年5月、エドウィン・ライシャワー元駐日米大使にインタビューして「米軍の艦艇は核兵器を搭載したまま日本の港に立ち寄り、領海を航行することを日本政府が黙認する合意が日米間にある」という発言を得て、「日本の非核三原則の『持ち込まず』の虚構」として毎日新聞で報道した。

これは鈴木善幸政権のころで、外務大臣は園田直(そのだ すなお)、その秘書官が不肖渡部亮次郎だった。

とはいえ、当時、日米首脳会談に際して発表した日米共同声明をる鈴木首相と外務大臣伊東正義氏の対立が表面化。伊東外相が辞任したので、園田氏が後任として厚生大臣から急遽横滑り就任したばかりだった(18日)。

20日にマンスフィールド大使が外務省に尋ねてきて1時間会談、そのご衆参両院で野党による緊急質問が行なわれたが、政府、外務省としては事前協議の要請があった事は、これまでになかったのだから核の持込は無かった、と「見解」を統一。完全否定で切り抜けた。慌てる者は誰もなかった。

当時、社会党、公明党、民社党、共産党、新自由クラブの野党各党で政府答弁を信じる者は皆無、核持ち込みを事実と想像していた。

個人的には「持ち込まれていることがあるかもしれない、と思わせた方
が抑止力だ」と漏らす野党議員もいた。

後年、米側の公文書や村田良平元外務次官、吉野文六・元外務省アメリカ局長らが相次いでその存在を認め、そのライシャワー発言報道の正確さが証された。この報道は1982年、新聞協会賞を受賞した(毎日新聞は3年連続の受賞)。

さらに2009年には複数の外務次官、審議官経験者が密約の存在を認めた。それでも日本政府は否定しつづけていたが、2009年8月24日に民主党政権が現実味を帯びつつある中で外務省の薮中三十二事務次官はついに「そのときどきの話はあったと承知している」と述べ、日米間で見解の相違があり議論があったことを認めた。

今後、密約をめぐる文書の有無を調査するかについても含みを持たせるに至り古森氏の報道の正しさが政権交代と沖縄密約情報開示訴訟に吉野文六が2009年12月1日に出廷し証言することによって四半世紀たって日本においても公式に事実であると証明されつつある。

これに先立って1967(昭和42)年に佐藤栄作内閣総理大臣が「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」という非核三原則を打ち出し、衆議院において非核三原則を遵守する旨の国会決議が行われた。「日本に他国から核兵器を持ち込まさせない」ということで1974年(昭和49年)に提唱者の佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した。

それ以降の歴代内閣は非核三原則の厳守を表明しており、非自民首相であった細川護熙、羽田孜、村山富市も非核三原則の遵守を表明していた。

アメリカによる核の持ち込みの可能性について日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」としていたが、「核を持ち込ませず」が実際に守られているかどうかは疑わしい点が多い。

アメリカは、自国艦船の核兵器の搭載について「肯定も否定もしない」という原則を堅持しているが、日本に寄港するアメリカ海軍の艦船が兵器を保有していないとは軍事の常識としてあり得ないとされる。

後年の1999(平成11)年には、日本の大学教授がアメリカの外交文書の中に「1963年(昭和38年)にライシャワーが当時の大平正芳外務大臣との間で、日本国内の基地への核兵器の持ち込みを了承した」という内容の国務省と大使館の間で取り交わされた通信記録を発見し、この発言を裏付けることになった。

また、2008(平成20)年11月9日放映の『NHKスペシャル』「こうして
“核”は持ち込まれた〜空母オリスカニの秘密〜」において、朝鮮戦争
時の1953(昭和28)年にアメリカ海軍の航空母艦「オリスカニー」が核
兵器を搭載したまま日本の横須賀港に寄港していたことが明らかになった。

さらにライシャワー元駐日大使の特別補佐官を務めたジョージ・パッカード米日財団理事長がアメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」2010年3・4月号へ寄稿して明らかにした。

それによると、アメリカ軍がベトナム戦争中の1966(昭和41)年に、日米安全保障条約に違反して、返還前の沖縄にあった核兵器を日本政府に無断で本州に移したことがあったといい、1972(昭和47)年の沖縄返還までアメリカ軍がたびたび日本政府とアメリカ国務省の要請をはねつけ、同様の核持ち込みを行っていたことも示唆している。

パッカードはまた毎日新聞の取材に、米軍が1966年の少なくとも3カ月間、岩国基地沿岸で核兵器を保管していたと証言した。

なお、1991年(平成3年)の冷戦終結に伴い、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が地上配備の戦術核兵器と海上配備の戦術核ミサイルの撤去を宣言したことで、平時において核搭載艦船が寄港するなどの形で日本への核持ち込みは無くなったとされる。

核の持ち込みについて日本政府は「事前協議がないのだから、核もないはず」とし、「事前協議があれば核持ち込みを拒否する」とことを表明していた。

しかし、これは逆に「協議を申し出るか否かはアメリカ軍の自由であり、協議抜きで内密に持ち込む」可能性をも物語っている。

また、反核政策により核兵器を搭載していると思わしきアメリカ海軍艦艇の寄港を拒否したニュージーランドは、その際に、日本を出港したアメリカ海軍艦艇がそのままニュージーランドへ寄港を希望した場合の対処について、苦慮したと言われる(現在までそのような問題は生じてい
ない)。

またカート・キャンベル国務次官補は2009年(平成21年)9月に来日した際、持込みに関する密約は事実存在し「非核三原則」は有名無実である旨言明した。

核持ち込み問題について、2009(平成21)年9月に鳩山由紀夫内閣で外務大臣となった岡田克也は全て調査し11月末を目途に公開するよう外務省に命令した。

日米間の核持ち込みに関する密約は2つあり、1つ目は核搭載米軍艦船の一時寄港と領海通過密約、2つ目は緊急事態における事前協議後の沖縄への核の持ち込み密約である。

2010年(平成22年)3月に報告書が出されたが、いずれにしてもこの様に元駐日アメリカ大使本人や、その後の様々な調査によりアメリカ軍による日本への核持ち込みとそれに対する「密約」が存在していたことが事前に証明されているにもかかわらず、なぜ時間と手間をかけて調査、報告をする必要があったのかと、その背後関係を懸念する意見もある。

鳩山内閣は核の持ち込みについて事前協議があった時には「常に核持ち込みを拒否する」としていた政府見解を「核持ち込みを認めるかどうかを曖昧にする」に見直す方向で検討を始めた。

「核兵器の持ち込み」(アメリカ軍に限られ、他国軍については適用しない)の定義については、日米間に相違があった。すなわち、米国政府の理解は、「持込み(introduction)とは核兵器の配置や貯蔵を指すものであり、それ以外は、「transit」として一括し、「transit」には寄港、通航、飛来、訪問、着陸が含まれ、共に事前協議の対象外であるとするもの」である。

これに対して日本側では、「transit」も「持ち込み」に当たると解釈する。この米国側の解釈と日本側の解釈の違いが、さまざまな混乱の元であるとされている。

実際、他の事例で言えば、旅客機が最終目的地までの飛行の途中で他の
空港に立ち寄ることがあるが、これは「トランジット」と呼ばれており、たち寄り空港のある国のビザなどは必要とされない。

また、貨物船がある国に寄港する場合にも、貨物をその国に通関させない限り、何らの手続きを要しない。以上のことから、国際的には、たとえ貨物が核兵器であっても、単なる寄港の場合は、その国に持ち込んだことにはならない、との解釈が常識的である。

2010(平成22)年1月、岸政権下の1960(昭和35)年に外務事務次官を務めた山田久就が、国会で事前協議に関して為した答弁「通過・寄港も対象」は野党の追及をかわすための嘘であり、実は対象外にされていたことが、公開されたインタビュー録音から判明した。

日米政府の公文書公開により、核の持ち込みを定義が日米間で不一致で
あることを知られるようになった。

2010(平成22)年3月に発表された日本の外務省調査委員会は明文化された日米密約文書はないとしながらも、日本の政府高官が核の持ち込みを定義が日米間で不一致であることを知りながらも米国に核の持ち込みの定義の変更を主張していないことなどを理由に、核の持ち込みについて広義の密約があったと結論付けた。

日米政府の公文書公開により、寄港などの形で核持ち込みを知っていた
政府高官は以下の通り。内閣総理大臣経験者として岸信夫、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、橋本龍太郎、小渕恵三。

外務大臣経験者として愛知揆一、木村俊夫、鳩山威一郎、園田直、大来佐武郎、伊東正義、桜内義雄、安倍晋太郎、倉成正、三塚博、中山太郎。

内閣官房長官経験者として二階堂進。

1994(平成6)年に佐藤首相の密使を務めたとされる若泉敬(当時は京都産業大学教授)が「1969(昭和44)年11月に佐藤・ニクソン会談後の共同声明の背後に、有事の場合は沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという秘密協定に署名した」と証言している。

2010年(平成22年)3月に鳩山内閣の調査報告書が出された。調査報告書では佐藤栄作元首相がニクソン元大統領と有事の際に沖縄への核持ち込みについて、事前協議が行われた際には日本側が「遅滞なく必要を満たす」ことが明文化された密約文書が確認されたが、外務省の中で引継ぎがされた形跡がないという理由から日本政府として米国政府と密約したことは確認できないと結論づけた。

大きく報じられる事はなかったが、「密約」に身を挺した若泉敬氏は服毒自殺した。佐藤=ニクソンで交わされた密約の舞台裏を、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。

完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。佐藤ノーベル平和賞野犠牲者である。(「ウィキペディア」) 2020・3・24
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