2010年03月28日

◆佐藤ノーベル賞の陰で

渡部亮次郎

故佐藤栄作元首相は沖縄返還を功績として、日本人初のノーベル平和賞を受賞したが、その陰で優れた国際政治学者が青酸カリ自殺を遂げていたことを知る人は少ない。

その人の名は若泉 敬(わかいずみ けい)。1930年3月29日 ―1996年7月27日、沖縄返還交渉において、佐藤栄作首相の密使として重要な役割を果たした。死去した時、新聞は癌死と報じたが、そうではなかったことを知ったのは極く最近。

若泉氏と交流のあった宮崎正弘氏(評論家、作家)が最近、自らのメール・マガジン「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」(http://www.melma.com/backnumber_45206)で軽く触れていたから初めて知った。以下「ウィキペディア」より。

福井県今立郡今立町(現・越前市)生まれ。1954(昭和29)年東京大学法学部政治学科卒業。佐伯喜一の知遇を得て、保安庁保安研修所教官となる。

1957年ロンドン大学大学院修了、1960年米国ジョンズ・ホプキンス大学客員教授となり、マイク・マンスフィールド、ディーン・アチソン、ウォルター・リップマンらと面識を持った。

1961年防衛庁防衛研究所所員。創立に貢献した京都産業大学に1965(昭和40)年より教授として招聘される。1966年に京都産業大学世界問題研究所所員、1970年から1980年まで同研究所所長を務める。1992年の京都産業大学退職時には退職金全額を同研究所に寄付し、同研究所ではこれをもとに「若泉敬記念基金」を設立した。

核時代における日本の平和外交・安全保障政策のあり方についてビジョンを構築し、『中央公論』などの論壇誌でその主張を提示していた。

1966(昭和41)年頃から、面識のあった愛知揆一(外相)の紹介で佐藤首相に接触するようになる。佐藤は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わったとは言えない」と演説したように、沖縄返還に並々ならぬ熱意を持って臨んでいた。

翌1967年、福田赳夫自民党幹事長を通して、沖縄問題についての米国首脳の意向を内々に探って欲しいとの要請が伝えられ、これを期に密使として度々渡米し、極秘交渉を行うこととなる。

密使としての交渉に際して、若泉は偽名「ヨシダ」、ニクソン政権において若泉のカウンターパートとなったキッシンジャーは偽名「ジョーンズ」を用いた。

「核抜き・本土並み」返還の道筋が見えてきたところ、日米首脳会談直前の1969年9月30日、キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官より、「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を認めるよう要求するペーパーが提示された。

1969年11月10日 ―11月12日の再交渉で、若泉は「事前通告」を「事前協議」に改めるよう主張、諒解を得る。この線で共同声明のシナリオが練られることとなり、同年11月19日(米国時間)佐藤・ニクソン会談で3年後の沖縄返還が決定されることとなった。

その後は現実政治に関与することなく、学究生活に戻った。なお極秘交渉の経緯を記した著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994年)において、核持ち込みと繊維問題について作成した日米秘密合意議事録の存在について触れている。

同書によれば、佐藤とニクソンは、大統領執務室隣の小部屋で、二人きりになって署名したという。この本を私は職掌柄、すぐに読んだが、なぜかマスコミは無視。全く評判にならなかった。

この本が出版されるに先立つ事20年。首相を退いて2年目の1974
(昭和49)年12月、沖縄返還実現を理由に、佐藤に日本人初、ノーベル平和賞が授与された。

沖縄返還が実現したのは若泉とキッシンジャーの裏交渉により「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を日本が「密約」したからである。「密約」無ければノーベル賞なしだったのだ。

同書の上梓後、ノーベル賞からも20年経った1994年6月23日付で大田昌秀沖縄県知事宛に「歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を取り、国立戦没者墓苑において自裁(自殺)します」とする遺書を送り、同日国立戦没者墓苑に喪服姿で参拝したが自殺は思いとどまった。

その2年後、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には癌性腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。

自殺したという話を聞いた大田は「核密約を結んだことは評価できないが、若泉さんは交渉過程を公表し、沖縄県民に謝罪し、『結果責任』を果たした。人間としては信頼できます」とコメントしている。英語版が公刊されたのは、2002年である。なお、『正論』2006年9月号に、英語版序文の原稿が掲載されている。

核持ち込みについての密約は、信夫隆司が2005年までに機密指定が解除された米政府公文書から、密約を裏付ける文書を発見した。キッシンジャーからニクソンへのメモで、日米間の密約を示す「共同声明の秘密の覚書」の存在に触れ、覚書が「核問題」に関するものであることを明らかにしている。

日本側での所在は長らく確認されず、日本の政府・外務省は密約の存在を否定していたが、2009年12月に佐藤栄作の遺品にこの密約と見られる「合意議事録」が存在し、遺族が保管していたことが報道された。

また、2010年3月9日、鳩山政権になってから、岡田克也外務大臣の命令で、核密約があったか否かを調査してきた有識者委員会(座長:北岡伸一東京大学教授)は、正式に(広義の)核密約があった旨の調査結果を報告した。これを受け政府(鳩山内閣)、外務省(岡田外相)はこれまでの、自民党政権下での公式にはなかったとされてきた見解を改めた。

ただし、日本国政府が認めたのは初めてであるが、関係者の間では密約はあったというのは半ば常識化されていた。

今回の有識者委員会の座長を務めた北岡はその著書、『自民党―政権党の38年―』(中公文庫・2008年版・元は95年、読売新聞社から単行本で刊行)の中で、佐藤内閣の沖縄返還を巡る記述の中で、(pp.148−149)若泉の『他策ナカリシヲ信ゼムと欲ス』を紹介し、「密約があったという」という内容の事を記述している。(文中敬称略)

著書
『トインビーとの対話――未来を生きる』(毎日新聞社, 1971年/講談社[講談社文庫], 1982年)

『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋, 1994年/新装版, 2009年)

The Best Course Available:A Personal Account of the Secret U.S.-Japan Okinawa Reversion Negotiations, edited by John Swenson-Wright, (Honolulu: University of Hawaii Press, 2002).

評伝
森田吉彦「評伝・若泉敬(全7回)」(『諸君!』2008年10月号-2009年4月号に連載)
後藤乾一『「沖縄核密約」を背負って: 若泉敬の生涯』岩波書店、2010年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2010・3・25

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