2010年04月06日

◆現地音カタカナ表記は勘辨してくれ

上西 俊雄

<古澤さんと毛馬さんの記事に觸發されて書いたものです。>

[はじめに]

現地音カタカナ表記について考へてみたい。長くなるので適宜見出しを立てた。なほ表記は引用の際も好みに從ふ。

最近のものから例を擧げると「頂門の一針」1871 號 (4.4) の古澤襄氏の記事「韓國メデイアに踊る金正日訪中説」には次のやうな人名が出てくる。

金正日(キム・ジョンイル)總書記
金永南(キム・ヨンナム)最高人民會議常任委員長
金桂寛(キム・ゲグァン)外務次官
金正雲(キム・ジョンウン)

これらに漢字がなかったらどうだらう。ジョンウンは漢字が當ててなかったので「金正日」と「後繼者」の二つを鍵に檢索して得た表記。最初は新字體で檢索して得るところがなかったので鍵を正字に變換して得た結果である。

古澤氏がこれを當てられなかったことからすると、正雲ではない可能性があるのかもしれない。

實は、昨日(4 月 3 日)の早朝、ラヂオを附けてゐたらキンシジュンといふ人のインタビューがあった。韓國の詩人とのこと。聞き手が名前を現地音で言ふので解りにくいことおびただしい。聞き手がフッカンドンといふとキンシジュンさんがキタカントウと日本式に言ひ直してくれる、さういふところだけが音としてわかる。要するに漢字語を外國の字音でいふのが無理なのだ。

抗日運動に殉じた朝鮮の詩人ヨンドンジュとその從兄弟ソンモンギュといふのも後で調べて、さう言ったはずと思ふだけで、ソンモンギュだったかソンギュムンだったか寢ぼけながらもメモをとらうと用意したときにはもう記憶が定かでない。

後で調べてみると金時鐘、尹東柱、宋夢奎だから日本式の字音ならキンジショウ、イントウチュ、ソウムケイとなるところだ(イントウチュはイントウチュウと讀む人もあるかも知れない)。もちろん字音だけでは駄目だから昔だったら漢字を説明しただらうと思ふ。何故さうしないのだらう。

後で調べるにもカタカナだけでは何もでてきはしない。結局、韓國の詩人の一覽から選んで金時鐘を知ったのだった。

[何が問題か]

昨日の日經夕刊に高校生に裁判員裁判の判決文を採點させたとの記事があった。

法教育の一環として、京都の高校生が裁判員裁判の判決文を採點し たところ、「一度聞いただけでは頭に入ってこない」などと嚴しい 判決が言ひ渡された。平易になったと考へてゐた司法關係者からは 「市民感覺とのずれに氣づかされた」と反省の辯も聞かれた。

二月に京都教育大附屬高校(京都市伏見區)であった法教育の公開 授業。

(中略)

「一度聞いただけではすっと頭に入ってこない」「同人と同日とい ふ言葉は耳で聞くと混亂する」などの意見が出た。

授業を擔當した國語科の札埜和男教諭は「判決文は格調の高さはあるが、高い讀解力が必要。裁判員裁判が始る前に比べ改善されたとしても、市民にとってのわかりやすさにはほど遠い」と指摘。授業 に參加した福岡高裁の森野俊彦裁判官は「相當分かりやすくなって きたと思ってゐたので(生徒らの)判決はショック」と苦笑ひした。

高校生が解らうが解るまいが關係ないだらうと思ふが、もし判る必要のあるものなら高校生が努力して解るやうにならなければならない。判決文の方を變へろといふのは逆立ちであり教育の放棄だ。

しかし、外國の字音を持込むのは問題の性質が違ふ。市民にとって判りやすくするのでなく判りにくくするといふことだからいふのではない。アメリカ人に對して Jesus をイェススと發音しろと注文するやうな理不盡な理不盡なことなのだ。

以前、明木茂夫『オタク的中國學入門』のカタカナ現地音表記批判を紹介したことがある。第 1178 號(08.5.7))「缺損五十音圖の復元を(六)」參照

http://www.melma.com/backnumber_108241_4086976/

その明木さんから中京大學『國際教養學部論叢』の拔刷『地圖帳の怪』(4) が屆いた。同封の小册子『オタク的翻譯論 -- 日本漫畫の中國語譯に見る翻譯の面白さ』卷六の序文が判りやすい。

實はこの卷六は、夏休みの内に書き上げる豫定だった。ところがこのところ他の仕事に追はれてすっかりおそくなってしまった。で、何をやってゐたかと言ふと、「地圖帳論」だったのである。

學校の社會科の教科書や地圖帳の中國地名が、中國語發音に基づい たカタカナで表記されてゐることに皆さんお氣づきだらうか。「チョンチン」だの「チョンチョウ」だの「チョンツー」だの「チンチョウ」だの、もうカタカナばかりなのである。

これでは、我々中國語の教師でもどこのことだか分からない。語學 的な誤りも多い。さらに「ワンリー長城」だの「ター運河」だのといふ獨特の書き方は、間拔け以外の何物でもない。

入試や採用試驗など、いろいろな試驗でもカタカナで出題されるや うになってゐるやうだし、最近の中學生は漢字なしのカタカナのみで覚えさせられてゐるらしい。うわ、こんなの覺えろってのか…。

で、誰がこんなことをはじめたのだらうと、文部省關係の文獻をいろいろ調べてゐたら、どうもこのカタカナ現地音表記を作った人たちが、當初からかなり變なことを言ってゐるのが分かってきた。

中國の地名に限らず、「地名表記の手引き」關係の文獻にはをかしなことがたくさん書いてある。例へば、「原語が『Ye』となってゐたら一律『エ』と書く」といふ原則を決めておいて、「だから『イェルサレム』ではなく『エルサレム』と書く」と言ふ。なるほど、それはよしとしよ
う。

ところがその後、「よって『イェロー』は今後『エロー』と書く」と堂々とおっしゃってゐるのである。は?エローって…。そればかりか「ゆゑに『Yemen』は『エメン』と書くことになるが、慣用として熟してゐるので『イエメン』と書くことにする」などとひとり相撲まで演じてゐるのである。

他にも、「『紅海』は『レッド海』ではなく慣用により『紅海』とする」とも述べてゐる。おいおい、誰が「レッド海」にしようなんて言ってるんだよ。それから「『Jo』は『ジョ』だが、『ジョルダン』ではなく慣用により『ヨルダン』にする」ともおっしゃる。あの〜、「ジョ」とい
ふのは英語式の讀みなのでは?「ヨルダン」を「ヨルダン」と書くのにそんな理屈は要らないと思ふぞ。

私の本來の專門は中國古典なのだが、このところ副次的なテーマとして、「漫畫翻譯論」と「地圖帳論」とを竝行してやってゐる。漫畫の翻譯論はやってゐてとても樂しい。

ところが地圖帳の方は、社會的な影響の大きさを考へるととても笑ってゐられない。ツッコミどころ滿載の地圖帳關聯文獻を精讀してゐると、殘念ながら、地圖帳のカタカナ表記を作った人たちの中には、本稿で採り上げてゐる漫畫の翻譯家たちの知的レベルには遠く及ばない人たちが交じってゐたと感じずにはゐられない。

もし地圖帳のカタカナ問題にご興味がおありならば、拙稿「地圖帳の怪一〜四」(中京大學『國際教養學部論叢』及び『文化科學研究』所收)をご覽いただければさいはひである。

戰後の國語行政がこんな結果になってゐることは恐らく文部當局も御存知ないのではあるまいか。國聯地名會議やその專門家會議 (UnitedNations Group of Experts on Geographical Names = UNGEGN) に出席するのは國土地理院や外務省國際協力局專門機關課の人たちであって、文部科學省は我不關焉らしい。

[關聯する問題]

「頂門の一針」1869 號 (4.2) の毛馬一三氏の記事によれば、四條畷の戰で有名な四條畷市では傳統的な地名を繼承すべきだと一貫して「條」の字を使ってきたが、警察や府立高校、國道の道路標識、そしてJR驛などでは新字體であったので、大阪府に要請し、市條例を制定。その結果、それまで新字體を使ってきた警察署、保健所、國道標識、公立高校など民間も含め公的機關のほとんどが、「條」に改めたといふから大したものだ。

JR片町線の驛名だけは新字體だといふが、JR全體としてみても三鷹や鹿兒島など表外字を使はざるを得ない以上、字體は正字體で通すしかないと覺悟すべきだらう。電子化時代を見通せば、檢索の效率からしてその方が有利なのだ。

昨日讀んだ金谷武洋『主語を抹殺した男││評傳三上章』に戰後の國語施策をめぐる福田恆存と金田一京助の論爭に觸れたところがあった。

結果としては福田が正しかった、と金田一は讓歩し、自分たちの非を認めた。敗北を認め、相手を勝者と褒め稱へることは何ら恥ではない。誤りと知りつつそれを認めない虚榮心が恥なのだ。舊制浦和 高校時代の同級生であった福田との論爭を振り返って、父子二代の敗北を認め「參ったと頭を下げざるを得ない」と書いた金田一春彦 は君子であった。

誤りと知ったのなら、なぜ傳統的表記に復さなかったのか、また、なぜ傳統的表記に復すように文部省を説得しなかったのだらうか。著者金谷氏はモントリオール大學東アジア研究所日本語科科長。

森有正『日本語教科書』(昭和 47 年、大修館)で、外國人には舊假名の方が教へ易いと讀んだ覺えがあるが、萩野貞樹『舊かなづかひで書く日本語』(平成 19 年、幻冬舍新書)ではギリシャ美術史の澤柳大五郎氏から聞いたこととして外國人は歴史的假名遣ひの方がはるかによくわかるといふ話が出てくる。金谷氏の本が傳統的表記になることを期待したい。

■4月6日刊全国版メルマガ「頂門の一針」1873号の
<目次>
・「軍事同盟」で退陣した内閣:渡部亮次郎
・鳩山内閣支持率が急落33%…読売:古澤 襄
・田中角栄とオールドパー:岩見隆夫
・現地音カタカナ表記は勘辨してくれ:上西俊雄
・仕事も休みも相手は高齢:門 佳之
・2千冊の本を読む幼稚園児たち:伊勢雅臣

・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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