2010年04月30日

<夕刊>◆園田直の二十七回忌

渡部 亮次郎

晩年になって福田、大平、鈴木の三内閣で外務大臣を務めて死んだ故園田直の二十七回忌が3月27日に東京の増上寺で営まれ、秘書官だった私も参列した。

僅か70歳の死だった。糖尿病でありながらインシュリンを打たなかったための「若死に」であった。

皮肉な事に、彼が厚生大臣(当時)の時、日本ではじめて糖尿病患者の「自己注射」を許可。結果、医療業者の競争を促し、注射針は世界一細くなり、注射は殆ど無痛になっている。

彼が残した業績として、水俣病など公害病の初認定が残るが、外務大臣としてやり遂げた日中平和友好条約の締結は32年も以前のことだから、語られる事も少なくなった。

私はNHK政治記者から彼の秘書官に発令された者だけに、その舞台裏を記者の目で見つめていた。

中国について、実は田中角栄氏が首相として国交正常化交渉をした際、NHK政治部から記者として北京に同行していた。

その時発せられた共同声明で日中平和友好条約の締結が公約されていたのだが、田中氏はスキャンダルの為退陣し、次の三木内閣も交渉に行き詰まって退陣し六年が空費されていた。

福田内閣を打ち立てた園田は官房長官として鳩山外務大臣よりも積極的な条約推進論者であった。そのため剣道の弟子で中国育ちの人物をしばしば北京に派遣、廖承志氏ら共産党政権の有力者と接触させていた。

それがモノを言った。偶然にも園田は福田首相に煙たがられ、外務大臣に横滑り。当に日中平和友好条約の担当者になった。更に偶然にも中国側でも条約の推進勢力たるトウ小平氏が復活。

トウ氏の動静は大使館からの公式情報としては全く入ってこないが、例の剣道の弟子からは詳細に入ってきた。「園田が来れば調印する」という!)氏の発言すら入ってきた。

しかし大使館情報しか知らない福田首相と外相の仲は、首相の自民党総裁再選問題と絡んで、悪化していった。

締結を渋りだした首相に無断で北京行きの特別機を手配したのは有田事務次官。園田情報に賭けたのである。

動きは記者たちから首相に洩れた。だから箱根で静養中の首相に決断を求めに園田が厳しい顔で会ったとき、首相がいきなり「直(ちょく)さん、いつ行くや」といって園田をびっくりさせた。

かくて1978年8月8日、特別機は羽田を飛び立った。人民大会堂での交渉はたった二回目で中国側が日本案を全面受諾した。

それから六年後、園田は死んだ。それまでに大平、鈴木内閣で外相と厚生大臣を務めた。

■本稿掲載4月30日刊「頂門の一針」1901号のご案内
<目次>
・首相が辞めないと支持率回復は望めない:古澤 襄
・リニア新幹線は壮大なるムダ:平井修一
・怖い!ゴルフのイップス病:馬場伯明
・園田直の二十七回忌:渡部亮次郎
・掴めぬインド毛主義者らの真意:宮崎正弘
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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