一、民家の屋根を突き破って隕石が落ちてきた事件で有名な美保関は、島根県の東の端、中の海と日本海とに挟まれた町です。その地の利を活かし、大正時代までは交通の要衝として多くの廻船問屋が集まっていたそうですが、今は静かな漁業と観光の町。
今回は、美保関の町にある美保神社、仏谷寺の回です。
二、恵比寿様といえば、七福神の1人(正確には1柱)で、釣竿を担いで、鯛を抱いたイメージの日本で最もメジャーな神様のひとつですが、幾つもの「正体」を持つ神様でもあります。
物の本によれば、えびす神への信仰とは、本来、海岸に打ち寄せられた「外からのもの」に神秘性を認め、これをご神体として祀るものだったそうですが、やがて日本書紀や古事記に登場する特定の神をえびす神と結びつけ、祀るようになりました。
その特定の神の有力な1つが、大国主の息子の事代主神(コトシロヌシノカミ)で、美保関の町の中心というべき美保神社は事代主系の恵比寿神社の総本社とされています。
上述の一般的な恵比寿様のイメージ(竿を担いで、鯛を持って)も事代主から来ているそうです。
いわゆる国譲りの神話には、天照大神の使者タケミカヅチノカミから地上の支配権を譲るよう要求された大国主命が、美保関で釣りをしている事代主を呼び寄せて意見を聴いたという話が残っており(事代主は託宣の神様とされています。)、恵比寿様が釣竿を背負って、鯛を持っているのはこの神話の影響でしょう。
父親である大国主命も大黒天と同視されているので、親子で七福神に入っていることになります。
なお、恵比寿神社の総本社としては、寧ろこちらの方が有名かと思いますが、兵庫県西宮市の西宮神社は、正確には蛭子命(ヒルコノミコト)系の恵比寿神社の総本社です。
こちらの神様はイザナギ・イザナミが産んだ神で、骨の無い蛭のような子供だったので、藁の船に乗せて、海に流された(ひどい親です)とされています。
もっとも、ホームページを見る限り、西宮神社も上記の「釣竿を担いで、鯛を抱えた姿」を恵比寿様のイメージとして採用しているようです。やはり「蛭子」では参拝客が逃げますか。
三、私が美保関に向かったのは、以前記事にした出雲大社の本殿の特別参拝に参加した次の日のことです。
JR松江駅から途中バスを乗り継いで1時間半ほど。海岸沿いの道を延々と揺られて、ようやく美保関に着きました。もっとも、行政区画上はここも松江市になります。
平成の大合併の結果ですが、「何でもかんでも、くっつければいいってもんじゃないだろう」と言いたくなります。この付近の住民にとっては、松江市の中心部よりも橋(中の海と日本海を結ぶ水道には大きな橋が架かっています。)を挟んで対岸の鳥取県境港市の方がはるかに近い存在でしょう。
観光客の姿はほとんど見当たりません。ただし、土産物屋や旅館が何軒か並んでいるところを見ると、季節と時間帯によってはそれなりに客もいるのでしょうか。
漁港のすぐ側のバス停から歩くと、直に美保神社の鳥居が見えてきました。鳥居の前は広場のようになっていて、右側奥は(詳しくは後述しますが)仏谷寺への参道「青石畳通り」への出入り口になっています。
鳥居をくぐるとすぐ右側に宝物館がありましたが、残念ながら開いていないようです。先に進み、本殿へ向かいます。美保神社の見所は比翼大社造という特殊な形状の本殿です。
比翼大社造というのは、大社造(出雲大社の回を参照してください。)の神殿を横に2つ並べて繋ぎ合わせたというものです。
「比翼」というのは、おそらく「比翼の鳥」から来ているのでしょう。雌雄で翼を1つずつ持ち、2体1組で飛ぶという中国の伝説上の鳥ですね。
「比翼の鳥」、「連理の枝」と白楽天の長恨歌にもあります。仲の良い男女の例えに使われます。他の地方から来た人間にとっては、そもそも大社造の神殿自体が珍しく、それが2つ繋がって並んで合体しているというのですから、その異容は社寺巡り、文化財巡りを趣味とする者であれば、一度は見ておきたいところです。
もっとも、正面手前に大型の拝殿(ここまで巨大だと、これはこれで珍しいですが。)が建っており、これが邪魔(失礼)で、正面からは本殿の特異な形体を掴み難くなっています。後ろから見た方がよく分かりますね。
ちなみに、社殿が2つ繋げられていることからも予想できたかと思いますが、祭神は事代主だけではなく、大国主の后である三穂津姫(ミホツヒメ)も加えた2柱です。事代主が大国主の息子で、三穂津姫が大国主の后だから、当然、三穂津姫は事代主の母親・・・ではないのですね。
大国主は好色で、多くの后を持つ神様であり、「大穴持(オオアナモチ。多くの「穴」を持つの意。意味の分からない方はスルーしてください。お願いですから。)」という女性団体から猛抗議が来そうな別名の持ち主だったりします(これ以外にも様々な異名を持ちます。)。事代主の母は、別の女神とされているそうです。
とはいえ、母子関係にない2柱を一緒に祀るというのも奇妙な話ですので、三穂津姫が本来の祭神で(「三穂」は「美保」に通じますので、土地神だったのでしょう)、その後、上記の国譲り神話をもとに事代主が祭神に加えられたとの説もあるとのことでした。祭神が後から足されることは、しばしばあることなので、あり得る話です。
四、美保神社から仏谷寺までの参道は、青石畳通りと呼ばれている天然石を敷き詰めた小道になっています。古い旅館や資料館が立ち並んでいて、落ち着いた雰囲気です。
時間とお金があれば一泊して、落ち着いた雰囲気の中、海鮮料理を楽しみたいところですが、残念ながら、売れない弁護士の私には両方とも不足しています。
仏谷寺を開いた人物としては、寺伝その他で聖徳太子、空海、行基の名が挙げられているそうですが、要するによく分かっていないということですね。有名人の名前を出すだけならただですから。
もっとも、後鳥羽上皇や後醍醐天皇が隠岐に流されるときに行在所(一時的な仮宮)とされたとのことなので、鎌倉時代のころに美保関一帯で中心的な寺院だったことは間違いないでしょう。
とはいえ、現在は往時の面影もなく、広いと言い難い境内に本堂と収蔵庫等が残っているのみですが、その収蔵庫の中には、平安時代に作られた5体の重要文化財の仏像が納められていて、私(訪れる参拝客のほぼ全て)のお目当てもそれです。
寺の近くの食堂の前に仏谷寺の収蔵庫の受付をやっているとの看板が立っていたので、そちらを訪ね、鍵を開けてもらい、中に入りました。ずらっと並んだ木製の仏像の印象は、良くも悪くも素朴で、造形的にはおよそ洗練されているとは言い難く、悪くいえば、やぼったい、よく言えば、親しみがあるという印象です(写真撮影禁止なので、写真は無しです)。
出雲様式というそうで、中央から離れた地方で、独自に発展した様式なのだとか。残念ながら、どこら辺がどう独自なのかまでは、不勉強な私には分かりませんでしたが。
境内の出入り口の脇に八百屋お七の恋人吉三(名前その他の設定には幾つか説があるそうです。)の墓があります。お七は、江戸の町のとある八百屋の娘でしたが、火事で避難した際に巡り合った少年吉三との再会を願う余り、自ら放火を試みて、火あぶりの刑に処されたという悲劇のヒロインで、井原西鶴の好色5人女のモデルの1人ですね。
吉三は、お七の死を悲しみ、出家して各地の寺を巡り、この仏谷寺で倒れ、葬られたというのが寺伝になっているとのこと。ただの行き倒れの墓を適当に観光名所にでっちあげたのではないか等という無粋な詮索は止めておきましょう。
五、今回は松江市側から来ましたが、対岸の鳥取県境港市から車(バスの便もありますが、本数が少ないので、タクシーかレンタカーがよいでしょうか)で来る方がアクセスはよさそうです。
境港市の水木ストリート(ゲゲゲの鬼太郎とその仲間たちの銅像が並んでいる通りです)とセットで観光するのがお勧めです(私は帰りに寄りました。)
終