2010年06月19日

◆湖畔の宿の大東亜会議

渡部 亮次郎

小学校入学の5か月前に「大東亜戦争」(のちにアメリカの命令により「太平洋戦争」と呼ばされるようになった)が始まったが、実際は、生後1年目の1937年に日本軍はすでに中国で蒋介石の軍と戦っていた。子供だから知らなかったのは当然だが。

日本軍と中国軍との衝突のはじめは昭和6年の満州事変である。それまで日本人居留民保護のために満州に駐在していた関東軍が本国政府の意向を無視した軍事行動で満州全土を占領。既成事実を突きつけられた政府(若槻礼次郎内閣)は事後承認の形をとった。

それが翌昭和7年の満州国建国につながる。同じ年(1月)には上海の日本人居留民保護を目的とした上海事変で日本軍が上海に進撃し占領するが、停戦協定によりすぐに撤退している。

昭和12年には支那事変(戦後に日中戦争と改称)が起こり、同年には中国国民党政府の首都南京が日本軍に占領され、日本側は先の上海事変の時のようにここで停戦になるのではないかと淡い期待を抱いたが、蒋介石側が徹底抗戦策を取ったために中国全土を舞台にした終わりの見えない戦争になし崩しに突入する。

日本が中国で軍事行動をしていたのは、戦前では昭和6年9/18の柳条溝(正確には柳条湖だが昭和50年代頃までは柳条溝で日本国内では通っていた)事件から昭和8年5/31の塘沽協定までの期間と、昭和12年7/7の盧溝橋事件から昭和20年8/15の対米英戦での日本敗戦までの期間となる。

日本が戦争に初めて敗ける昭和20 (1945) 年を挟んで少年時代を送った者だから、当時の歴史を系統だって自分の中で整理しないままだ。

東京・渋谷の古賀政男邸跡地に建った古賀政男音楽記念博物館で何年か前、2年間に亘って昭和の流行歌を振り返る会が毎週開かれて出席を続けたことがある。

その頃、物資も窮屈になった昭和15、6年ごろ、すこぶる付きの美人女優で歌手の「高峰三枝子さんのお宅に新人歌手の伊藤久男さんから、大量の洋服地が送られてきて、高峰さんを驚かせた」、という話題があった。

それは高峰さんの「湖畔の宿」(作詞:佐藤惣之助 作曲:服部良一)が大ヒットしかけたため、B面の伊藤久男さんの「高原の旅愁」の印税ががっぽり入りかけたことのお礼だった、という話だった。

いまのCDやMDと違って、昔のレコードにはAとBの両面があり、ヒット確実がA面、それほどでもないのがB面にプレスされた。とはいってもB面がなければA面は発売されないわけだ。

湖畔の宿

作詞:佐藤惣之助
作曲:服部良一
唄:高峰三枝子

1 山の淋しい 湖に
  ひとり来たのも 悲しい心
  胸の痛みに 耐えかねて
  昨日の夢と 焚き捨てる
  古い手紙の うすけむり

2 水にたそがれ せまる頃
  岸の林を 静かに行けば
  雲は流れて むらさきの
  薄きすみれに ほろほろと
  いつか涙の 陽が落ちる

(台詞)

 「ああ、あの山の姿も湖水の水も、
 静かに静かに黄昏れて行く……。
 この静けさ、この寂しさを抱きしめて
 私は一人旅を行く。

 誰も恨まず、皆昨日の夢とあきらめて、
 幼な児のような清らかな心を持ちたい。
 そして、そして、
 静かにこの美しい自然を眺めていると、
 ただほろほろと涙がこぼれてくる」

3 ランプ引き寄せ ふるさとへ
  書いてまた消す 湖畔の便り
  旅の心の つれづれに
  ひとり占う トランプの
  青い女王(クイーン)の 淋しさよ
(MIDI制作:二木紘三)

「湖」は群馬県の榛名湖と、佐々木惣之助は書き残している。

日独伊三国軍事同盟が締結され、日本が大戦に向けて突っ走り始めた昭和15(1940)年に発表され、大ヒットした。ところが感傷的で淋しい詩とメロディが戦意高揚を損なうということで、当局は発売禁止にした。すでに相当普及していた。

(北海道真狩村の開拓農家から作曲家を目指して上京した八洲秀章がB面の「高原の旅愁」初ヒットと雀躍したのもつかの間となった)。

「しかし、大衆の心は、この歌の切ない想いを捨て切れなかった」(「新版日本流行歌史 =中= 」) B面もレコード無しでも流行した。その後、歌手たちの戦地慰問で、兵士たちからのリクエストが圧倒的に多かったのがこの曲だった。

とりわけ、特攻隊の基地で、若い航空兵たちが死を直前に直立不動でこの歌を聞き、そのまま出撃していった姿が忘れられないと、高峰三枝子は幾度となく語っている。

「この静けさ、この寂しさを抱きしめて私は一人旅を行く。誰も恨まず皆昨日の夢とあきらめて……」の部分がとくに兵士たちの胸に響いたのだろうか。

ところで戦時体制に入ってから、

<軍部や政府は「厭戦気分を煽るが如き歌謡の排除」を指令し、それらの歌唱禁止やレコードの販売を禁止するといった方法で抑圧するまでになりました。

しかし、抜け道はあるもので「大陸」や「時代もの」にすれば大半の唄が許可になりましたし、そうでなくとも前線の兵士を慰問する際に歌唱した国内では禁止された歌が兵士の帰還と共に国内に流入すると言うことも多く見られました。

歌唱禁止という措置にしても最初は初めはさほど厳しいものでは無かったのですが、戦局の悪化とともに明治時代に作られたヒューマニズムに溢れた「婦人従軍歌」なども『敵軍兵士を救護するとは何事か!』などと言い出してしまう始末。

ここにおいて日本の目指した理想から大きく逸れてしまい侵略国の汚名を自ら着ることにもなってしまったものと思います。>(松原虹氏ブログから)

反対に戦意高揚の名の下に軍歌と称するものも数多く作られた。それは軍や政府の手だけでなくNHK,新聞、雑誌社などによっても「募集」の形で制作された。結果、畏友加瀬英明氏をして「これほど軍歌が歌われている国はない」と言わしめるほどだった。

ところが、戦時体制を強化するために政府が招集したアジア首脳会議の出席者が、歌唱禁止の歌を所望して当局者を困らせたという話が残っているから面白い。

その会議とは戦時中の昭和18(1943)年11月5,6両日、東京で開催された「大東亜会議」。日本の勢力下にあるアジア諸国の首脳である。

東京に一同に会したこの会合について、戦後、連合国側によって、「参加国」・採択宣言共にすべて否定されてしまって、今では歴史学者か私のような偏屈者しか知らない。

この会議参加した面々。

東条英機 大日本帝国内閣総理大臣
張景恵 満州国国務院総理(首相)
汪兆銘(精衛)中華民国(南京国民政府)行政院院長(首相)
ワンワイタヤコーン殿下タイ王国首相代理
ホセ・パシアノ・ラウレル フィリピン第二共和国大統領
バー・モウ ビルマ共和国国家主席(首相)
チャンドラ・ボース 自由インド仮政府首班

このときのビルマは現在のミャンマー。そこの首相のバー・モウ氏が東條総理の禁じた「湖畔の宿」を高峰の歌で聞きたいとねだったので、政府は直ちに高峰を招いて歌わせた。

発売禁止にした歌を、歌手を招いて歌わせる。恥ずかしいような話だが、大東亜共栄圏実現のためだ、目をつぶれとか何とかいったのだろう。

高峰は既に手に入らなくなっていた甘味料や菓子を「たくさん戴いて帰りました」と語ったのを聴いたことがある。

一方のバーモウは日本の敗戦と共に日本へ亡命したが、結局は帰国した。

以下『昭和史の天皇 8』

( 読売新聞社 編、読売新聞社 1969年10月発行 )による。
 
<第2次世界大戦末期、日本そのものが敗戦必至の状態に陥った時、アジア解放の旗じるしのもとに、アジア各地に日本が作った独立国ないしは、その予定国の政権のあと始末をどうするかの問題が起こった。

これらの政権は、満州にあった皇帝溥儀以下の満州国政府、中国大陸には汪精衛を継いだ陳公博の南京政府、ビルマのバー・モウ政権、フィリピンのホセ・ラウレル政権、そしてビルマのラングーンにあったチャンドラ・ボースの自由インド仮政府であった。
 
ビルマ民族運動の先駆的指導者で、第2次世界大戦中の1943年8月、ビルマの独立宣言とともに、国家元首(国家代表)に就任していたバー・モウ(1893年〜1977年)は、1945年4月日本軍のビルマ方面軍司令部のラングーン撤退とともにモールメン近くのムドン集落に移動、ここで終戦を迎えた。

終戦直後の1945年8月下旬、バンコク、サイゴンを経由してバー・モウは、一旦日本に亡命。新潟県の寒村で潜伏生活をしていたが、結局1946年1月には英代表部に出頭し巣鴨拘置所に収容されることになる。

しかし1946年8月、英国により特赦され帰国した。一時ビルマ政界に復帰するが、軍事政権下では拘禁され、釈放後、1977年、ラングーンの自宅で84歳の波乱の生涯を閉じている。以下略>
 
明治が遠くなって俳句になったが、いまや昭和も遠くなった。平成22年の今年、昭和に直すと「昭和85年」である。

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