2010年06月22日

◆水爆に追放された「原爆の父」

渡部 亮次郎

話題の主はロバート・オッペンハイマー。

J・ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer, 1904年4月22日―1967年2月18日)。ユダヤ系アメリカ人の物理学者である。

理論物理学で国際的な業績をあげ、第2次世界大戦当時ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導。卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たしたため「原爆の父」として知られた。

しかし、戦後の水爆開発に際して核兵器に反対の立場に転じたため、公職追放された。殺戮は手段を進化させるという戦争の原理を知らない単なる爆弾屋だったから当然の結果である。

日本は原爆を作らぬうちに万歳したが、鳩山みたいにいくら立派な大学へ通っても、まともに国家運営のできない政治家を総理にして世界に恥をかいた。「鳩山はオッペンハイマーだ」。

ドイツからの移民の子としてニューヨークで生まれた。父はドイツで生まれ、17歳でアメリカに渡ったジュリアス・オッペンハイマー、母は東欧ユダヤ人の画家エラ・フリードマンである。

非常に早熟で、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語(最終的には6カ国語を操った)を学んでいた。

ハーバード大学に入学し、化学を専攻した。1925年に最優等の成績を修めてハーバード大学を3年で卒業すると、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学んだ。

オッペンハイマーはここでニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入って行く。1929年には若くしてカリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執った。1936(昭和11)年には教授となる。生徒などから呼ばれた愛称は「オッピー」。

第2次世界大戦のさなか、1942(昭和17)年には原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始された。オッペンハイマーは1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導した。

彼らのグループは世界で最初の原爆を開発し、ニューメキシコでの核実験(『トリニティ実験』)の後、日本の広島、長崎に落とされることになった(→広島市への原子爆弾投下・長崎市への原子爆弾投下)。

弟のフランクが後日ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』の中で語った所では、世界に使う事のできない兵器を見せる事により戦争を無意味にしようと考えていた。

しかし人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしても、それを今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していた。 また、戦後原爆の使用に関して「科学者(物理学者)は罪を知った」との言葉を残している。

戦後の1947年にはアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所所長に任命された。

核兵器の国際的な管理を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行い、かつソ連との核兵器競争を防ぐため働いた。水素爆弾など核兵器に対して反対するようになったため、「水爆の父」ことエドワード・テラーと対立した。

冷戦を背景に、ジョセフ・マッカーシーが赤狩りを強行した。 これがオッペンハイマーに大きな打撃となった。妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン(Jean Tatlock)は、アメリカ共産党員であった。また自身も共産党系の集会に参加したことが暴露された。

1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分(事実上の公職追放)とした。オッペンハイマーは私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯に亘って抑圧され続けた。

オッペンハイマーは後年、古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが自らの任務を完遂すべく、闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために恐ろしい姿に変身し「我は死なり、世界の破壊者なり」と語った部分を引用してクリシュナを自分自身に重ね、核兵器開発を主導した事を後悔していることを吐露している。

戦後、原子爆弾を生み出したことへの罪の意識からか、日本の学者がアメリカで研究できるよう尽力するようになった。2010・6・20

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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