2010年06月22日

夕刊 ◆角さんを食った早坂さん

渡部 亮次郎
6月22日は田中角栄事務所が閉められた日。詰まり最後の秘書;早坂茂三さんが締め出しを食わされた日。1985(昭和60)年のことだった。

<2004・6・20 台風6号の雨の中を外出し、日本橋で早坂茂三氏の肺癌死を知った。夕刊紙が大見出しで売っていたからである。73歳では早すぎる死であるが、田中角栄氏を食うだけの晩年だったことを思えば、長いご苦労だったと言えないこともない。

同じ政治記者だったとはいえ、5歳も年長だったし、なにしろ私が盛岡から東京・政治部へ着任したところは既に田中角栄氏の秘書だったので、出合いはなかった。昭和47年7月に田中内閣が発足し、私がNHK政治部で総理官邸担当に発令されたので出合うことになった。

それまで私はライバルの福田赳夫番だった。「作戦参謀を渡部さんが勤めているのじゃないかと、恐ろしかったよ」というのが初対面の挨拶だった。

但し早坂さんは総理官邸と公邸を繋ぐ廊下に机を置いて新聞の切り抜きをやっていた。総理の首席秘書官と呼ばれる総理大臣秘書「官」は後に別れた妻が「蜂の一刺し」で有名になる榎本敏夫氏だった。

榎本氏は東京・北区だかの区会議員から自民党の職員となった変り種であったが、幹事長当時の角さんに気に容られ、総理になると同時に首席秘書官に発令されたのである。

後に発覚するロキード事件は内閣発足直後に始まっている。だから秘書「官」の榎本さんが矢面に立たされたわけだが、早坂さんは角さんの「周辺者」だったから難を逃れた。新聞の切り抜きしかさせていない男に何億ものカネを扱わせる首相はいないだろう。

私は総理官邸に通いながら田中政治を批判し続けるものだから嫌われ、NHK上層部も困り果てた末、大阪に飛ばした。だが田中内閣は案の定、物価高騰を招き、「金脈追及」で短期間で瓦解した。

この時月刊「文藝春秋」に立花隆氏と並んで児玉隆也という人が「淋しき越山会の女王」という原稿を載せた。

この児玉さんが伝手をたどって私のところを尋ねてきて、週刊女性自身のデスク時代に「女王」佐藤昭(あき。後に昭子と改名)のことを企画したら、関係者に取りやめ料800万円を提示された。

もちろん断ったが、いかにも揃わない数字だった。断ったのに社内では受け取ったと言う評判が立って困った。なんで800だったんでしょうね、と聞かれた。

それから何年か経って早坂さんと隅田川沿いの浜町で一杯やる機会があった。そうしたら早坂さんが言うことには「あのときに田中が出したカネは3,000万円ですよ。当然還ってきてませんよ」との答えだった。

間に立ったのは当時有名な政治評論家と高名な作詞家だった、という。評論家は若死にしたが、作詞家はまだ生きている(2008年4月6日逝去)。

この席で早坂氏は角さんを「親父」と呼び「とにかく記憶力が凄い。何年の歳暮をどこの新聞の何と言う記者は送り返してきた、なんとかいう記者はお返しをして来た、総てを記憶しているんだ。私らのメモの方が不確実なんだ」と言っていた。贈り物を断る奴は敵、と決めていた角さんの面目躍如を物語っていた。

東京・新橋にヤクルト本社、その隣の徳間書店本社になっているところに東京タイムスという小さな新聞社が昭和40年代まで有った。早坂さんはそこの政治部の記者だった。

函館出身。山形から流れて行った人たちの末裔。早稲田時代、日本共産党員だった。読売の渡邉恒雄氏,日本TVの氏家会長は東大の共産党員だっ
た。 

記者生活は不満だらけだったろう。車すら十分に使えなかった。そこでかどうか田中角栄氏の所へ飛び込んで秘書になった。しかし真実、角さんは早坂さんを重用せず、秘書にはしても秘書「官」にはあまりしなかった。それについて当時を知る人は語る。

困る質問です。でも事実を言うしかありませんね。正確にいうと田中角栄の政務・政策担当秘書。ただ昭和37年に田中蔵相の秘書官をやったかもしれません。「官」が、もしあるとすれば、この時だけ。本人も32歳の時に「大蔵大臣秘書官になった」と何かに書いていました。

東京タイムス時代に親戚筋の大学の先生の奥さんと駆け落ちして、下落合の方で同棲していた筈です。相手は6歳年上、秘書になるに際して、身辺整理しました。麓さんについても「親佐藤で私より3つ上の共同通信政治部記者・麓邦明さんを秘書に加えた」と、自分が先に秘書になっていた様な説明をしています。

しかし当時のことを知る楠田実さん(佐藤首相の首席秘書官、楠田実日記の著者)は笑っていましたよ。時事通信にいたMさんも「麓は東大出で官界にも信用があったので、列島改造論は麓の尽力があったからこそ出来た」と書いていたが、

これが早ちゃんの手にかかると「通産省の役人たちと一緒に汗だくで本にした。総裁選挙前の6月、「日本列島改造論」が大ベストセラーになる。ネーミングは私の発案です」となる。

正直にいって早ちゃんにとって、昔のことを知っている私などは煙たい存在だったかもしれませんよ。死者に鞭打つつもりはないので真相は、すべて封印します。彼の癖からいえば、大蔵大臣秘書官も??なのですが・・早ちゃんの書いたものが、真実として残るのでしょう>。

私自身も大臣の秘書官を長い事やったから感じたことだが、役人たちは秘書「官」なら相手にするが、「長」や「官」の付いていないものは通行人扱いである。付いて無い奴には予算も机も付かないからである。

だから早坂さんは多くの屈辱を味わったと思う。それだけに、ほかのところで自分を飾って見せたかったのであろう。

角さんの信用を途中から失っていた。当時を知る人の話では待遇について文句を言ったからだそうだが本人は触れなかった。本人の言うとおりなら早坂さんこそは総理大臣になった角さんの首席秘書官でなければいけないはずだった。

ところが角さんは官邸の廊下からも退出させ、早坂さんを表には出さなくなった。当時、官邸にいた記者のひとりが言う。

<田中総理番は2年やりましたが、その時の番記者と早坂氏との付き合いはありませんでした。多分、どこの社も同じだと思います。番記者の対応は毎日交替でつく吉本(大蔵)、木内(外務)、小長(通産)、杉原(警察)の役人秘書官がやっていました。あとは山下・後藤田の両副長官です。

榎本首席秘書官とは、彼が募って亀岡・小沢(一郎)・高鳥らの議員と連れ立って富士山麓にゴルフに行ったりしましたが早坂氏とは「飲み会」もありませんでした。多分、早坂氏はチンピラの番記者など近寄せないような雰囲気がありました。そのあたりの呼吸は、同じブンヤ出身で佐藤内閣の楠田氏もそうで、2人はよく似ていると思っていました>

角さんの遇し方を見ていた真紀子さんは早坂さんを見下げていたフシがある。だから角さんが再起不能、というよりも、早坂さんを庇護する者が心身の自由を失ったとたんにクビにしたのである。

しかし、さすがの早坂さん、クビになったとたんに水を得た魚の如く八面六臂の活躍をした。かつては「親父の敵」のはずだった文藝春秋社の月刊雑誌「諸君!」のレギュラー執筆者にもなっていた。

あまた居た田中角栄秘書の中で記者上がりとして唯一の生き残りになったのが得となり、言論人に還ったのみか、角さんを栄養として名を成すことが出来たのである。なにしろ一介の政治家秘書の死に朝日新聞までが弔意記事を載せた例を私は早坂氏以外に知らない。(了)2004・6・20

以下「ウィキペディア」による。

早坂 茂三(はやさか しげぞう、1930年6月25日 - 2004年6月20日)は、日本の政治評論家。

北海道函館市恵比須町出身。田中角栄元内閣総理大臣の政務秘書を23年間務めた。秘書辞任後は、多くの著書を出した。

1943年東川小学校卒業、北海道庁立函館中学校、弘前高等学校を経て、1950年早稲田大学政治経済学部新聞学科入学。学生運動にのめりこみ、一時日本共産党にも入党した。浪人留年を繰り返した後に、1955年に早稲田大学政治経済学部を卒業。

東京タイムズ社に入社し、『東京タイムズ』の政治部記者として田中角栄と知り合った。1962年に大蔵大臣に就いた田中の秘書官となり、内閣総理大臣在任中とその後の「ロッキード事件」による逮捕の時期を含め、田中が脳梗塞で倒れた1985年まで政策担当の秘書を務めた。田中の病気治療方針などをめぐり、長女真紀子と対立し罷免、政治評論家に転身し
た。

田中角栄の政治的足跡や、出会った人々の生き方をテーマにした著書を多く出し、人生論を若者向け雑誌に連載し、全国各地で講演活動を行うなど幅広い活動をしていた。

テレビ番組では、報道番組の他、多数のトーク番組やクイズ番組、またドラマにも特別出演した。

2004年6月20日に肺ガンのため死去。享年73。葬儀は、遺言によりしめやかに行なわれた。

趣味は金魚飼育で、喫煙者(生放送出演時にも喫煙タイムを求める程、自他共に認めるヘビースモーカー)。

1982年に渡辺恒雄と共に、中曽根康弘の首相就任に奔走した。中曽根嫌いの角栄が矛を収めたのは早坂の手腕が大きいという。なお中曽根は首相就任後、渡辺と共に料亭で早坂と面会し、中曽根が土下座し角栄や早坂へ賛辞を述べた。


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