2010年07月06日

◆母国で無名の「昆虫記」

渡部亮次郎

先日、ラジオ深夜便でフランス文学者にして昆虫研究家の奥本大三郎さん(1944年3月6日 ―埼玉大学名誉教授、ファーブル昆虫館館長)が、フランス生まれの世界的昆虫学者ファーブルについて2夜に亘って語った。「虫と遊び虫に学ぶ」。

奥本さんは幼少の頃から虫好きだったが、学者としては昆虫学者にはならず、東大でフランス語を究め、「昆虫記」を翻訳して日本に紹介することに務めている。

ところが、田圃の中で育った私は昆虫と言ってもオニヤンマとイナゴぐらいしか知らないし、当然ながら「昆虫記」は読んだことが無い。少年時代、小遣いは0だったからである。

そこでフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』でファーブルを索引してみたところ、ほとんどのフランス人はファーブルが何者であるかを知らないことを知った。

アヴィニョンには現在ファーブルの功績を称えて、Rue Henri Fabre(アンリ・ファーブル通り)と名のついた道があるほか、パリにも蚤の市で有名なクリニャンクール Clignancourt に Rue Jean-Henri Fabre 通りがある。

だが、皮肉なことにそれら道を行き交うほとんどの人が、「アンリ・ファーブル」が誰であるか知らない。

また、ファーブルの生地であるサン・レオンにはファーブルの功績を称えて銅像が立てられているが、この銅像は第2次世界大戦時に進駐してきたナチス・ドイツによって、武器の材料として接収されたことがある。

しかし、その後レジスタンスによって奪還されて地中に秘匿され、今は彼の生家の庭にたたずんでいる。

日本、韓国、中国、ロシアなどではファーブルの『昆虫記』を題材にした子供用の本が発行されていて、読まれ、彼の名は一般大衆に広く知られている。

しかし、母国フランスをはじめ、ドイツ、英米などではそういった本はなく、彼の名はそれほど知られていない。

ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre、1823年12月21日 に生まれ1915年10月11日に死んだ。私の生まれる20年前である。

昆虫の行動研究の先駆者であり、研究成果をまとめた『昆虫記』で有名である。南フランスのアヴェロン県にある寒村サン・レオンに生まれ、3歳のとき山村にある祖父母の元に預けられ、大自然に囲まれて育った。

父の家業が失敗し、14歳で学校を中退するが、師範学校を出て中学の教師になり、物理学、化学の普及書を著した。コルシカ島、アヴィニョンを経てセリニアンで安住し様々な昆虫の観察を行い、それらをまとめて発表したのが『昆虫記』である。

ファーブルが生きていた当時、彼の業績は祖国フランスではあまり理解されなかった。しかしその後『昆虫記』は世界中で翻訳されて注目を浴び、文章の魅力もあいまって業績が評価されていった。

ファーブルの開拓した行動学的研究は、その後フランスよりもカール・フォン・フリッシュやコンラート・ローレンツのようなドイツ語圏、あるいはニコ・ティンバーゲンのようなオランダ語圏の研究者に継承されて発展を遂げることになった。

また古くからの昆虫愛好文化をもつ日本で広く愛読され、昆虫学の普及に役立った。

1863年、アヴィニョンのサンマルシャル礼拝堂で市民を対象に「植物はおしべとめしべで受粉をする」という原理を説明するも、参加者のほとんどが女性であったことから大きな非難を浴びた。

その後政界や教育界からの圧力により、彼は教壇を降りることとなる。この事件には独学で名を成したファーブルへの妬みや、文部大臣デュリュイへの宗教界からの意趣返しの側面もあった。

教員を辞めさせられると、彼の講義を受けていた生徒たちは置時計を記念に贈呈した(彼の生家に現在も置かれている)。その後、家主にも追い立てられたファーブルは、住み慣れたアヴィニオンを出てセリニアンに移り住む。

たまたまアヴィニオンに滞在していたイギリスの思想家ジョン・スチュアート・ミルに、ファーブルの生涯でただ一度の借金を申し込んだのもこの頃である。ファーブルは大きな試練に立たされるが、『昆虫記』の執筆に注力するのはこの後のことである。

セリニアンに移り住んで後に最初の妻を病気で失い、23歳の村の娘ジョゼフィーヌと再婚する。3人の子に恵まれ家族は8人の大所帯となる。

ファーブルが自らアルマスと名付けたセリニアンの自宅には1ヘクタールの裏庭があり、ファーブルは世界中から様々な草木を取り寄せて庭に植え付けると共に様々な仕掛けを設置した。老衰で亡くなるまで36年間、彼はこの裏庭を中心として昆虫の研究に没頭した。

この時期にファーブルはオオクジャクヤママユの研究から、メスには一種の匂い(現在でいうフェロモン)があり、オスはその匂いに惹かれて相手を探し出すということを突き止めた。試しに部屋にメスのヤママユを置いて一晩窓を開けていると、翌日60匹ものオスのヤママユが部屋を乱舞したという。

ファーブルは高齢になると年金による収入がなく、『昆虫記』ほか科学啓蒙書の売れ行きも悪かったため、生活は極貧であったと言われている。

このころヨーロッパ全土にファーブルを救えという運動が起き、1910年、当時のフランス大統領ポアンカレはファーブルに年2,000フランの年金と第5等のレジオンドヌール勲章を与えた。当時85歳を超えていたファーブルは健康を損なっており、横になったままの時期が多くなっていく。

1915年5月、ファーブルは担架に乗せられて、アルマスの庭を一巡りする。これが彼にとっての最後の野外活動となってしまう。同年10月11日、老衰と尿毒症で92歳で亡くなった。10・7・3


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