2010年07月20日

◆日の目を見る「氷雪の門」

渡部亮次郎

<1974年に製作され、ソ連の圧力で全国公開出来なかった映画「氷雪の門」 (北海道・稚内市にモニュメントが在る) が再評価され、上映の見込みが立った。

敗戦直後、樺太真岡郵便局電話交換嬢9人の物語。日米戦争を知らない世代は必見の映画。(産經新聞 7月18日 朝刊17面 カルチャー時評から)>札幌在住のメルマガ「頂門の一針」愛読者からの通信である。

メルマガの主宰者渡部亮次郎は、この映画の製作総指揮に当った小倉寿夫、製作の守田康司の両氏と上映不能になった事件をきっかけに知り合った。特に小倉氏は晩年が不幸だっただけに他人事(ひとごと)とは思えない。

「ウィキペディア」から引用して、コトの経緯を振り返る。

「樺太1945年夏 氷雪の門」 監督 村山三男 製作総指揮 三池信 小倉寿夫 製作 望月利雄 守田康司 脚本 国弘威雄

出演者 二木てるみ 藤田弓子 岡田可愛 鳥居恵子 栗田ひろみ 音楽 大森盛太郎 主題歌 九人の乙女

あらすじ
終戦間際の1945年夏、樺太の西海岸に位置する真岡町でも日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍の侵攻に脅かされようとしていた(樺太の戦い)。ソ連軍侵攻からの避難民は群をなして真岡町に向った。

8月15日には玉音放送によって終戦が告げられ、樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出された。そのため引揚者も順次でたが、8月20日のソ連軍の上陸掃討作戦開始まで間に合わなかった。

志願して職場に留まり、そのために追い詰められた女性交換手達は、通信で寄せられるあちこちで次々と殺害される市民の状況から、自らも青酸カリによる自決を選ぶしかなかった。

九人の乙女の像にも刻まれた「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」が通信最後の言葉。


1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送後も継続された、ソ連軍の樺太(現サハリン)侵攻がもたらした、真岡郵便電信局の女性電話交換手9人の悲劇(真岡郵便電信局事件)を描いている。


原作は金子俊男の『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』。

元新東宝のプロデューサーであった望月利雄が真岡郵便電信局事件の映画化を立案、まず八木保太郎に、次いで松山善三に脚本執筆を依頼したが、八木稿も松山稿も反戦色の強い脚本となり、望月の製作意図にそぐわないものだった。

そこで望月は国弘威雄に依頼、おりしも発刊された金子俊男の『樺太一九四五年夏・樺太終戦記録』を原作にして国弘稿が脱稿された。

一方、製作資金集めに奔走した望月は、知人の斡旋で小倉寿夫(小倉興業社長、元新東宝専務)を紹介され、小倉の先輩である三池信(元郵政大臣)が協力を約束した。

1972年5月に三池会長、小倉社長、望月専務の顔ぶれで株式会社ジャパン・ムービー・ピクチュアー(JMP)が設立され、1973月5月末に『氷雪の門』は撮影を開始した。

ソ連戦車の進撃場面には陸上自衛隊の協力が必要と感じた望月は、4年にわたり防衛庁と交渉を続け、その努力が実って、御殿場で撮影された戦闘場面には、戦車18台がソ連戦車として登場している。

完成した『樺太1945年夏 氷雪の門』は、多くの団体から推薦され、1974年4月から東宝系劇場での上映が予定されていた。「東宝配給」という記述が今も散見されるが、この時点では『樺太1945年夏 氷雪の門』はJMPの自主配給であり、東宝は劇場チェーンとして上映を行なう予定であったにすぎない。

だが、1974年3月7日、モスクワで開かれた東宝・モスフィルム合作映画『モスクワわが愛』の完成披露パーティーの席上、モスフィルム所長が「非常にソビエトにとって面白くない映画が東宝配給で日本で公開されようとしているのは理解に苦しむ」という苦言を口にした。

これは『樺太1945年夏 氷雪の門』配給 東映洋画部を東宝配給と誤解しての発言であり、パーティに出席した東宝のプロデューサーにとっては寝耳に水であった

この事実を掴んだ東京新聞モスクワ特派員が「東京のソ連大使館が内容を反ソ的とみているという話が当地に伝わってきており、代わりに“モスクワわが愛”の封切りさしとめの声も出ているようだ」と本社に報告、3月12日付け東京新聞夕刊は「ソ連『氷雪の門』に渋い顔」と報じた。

同日、かねてよりソ連の反応を気にしていた東宝営業本部は、自社チェーンでは『樺太1945年夏 氷雪の門』を上映しない旨を決定した。のち3月23日になってモスクワ放送が「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対して非友好的」という論評を流している。
東映の岡田茂社長が事態の収拾に乗り出し、自社が『樺太1945年夏 氷雪の門』を配給するという話を在日ソ連大使館の参事官に通したところ、「たいへん結構です」と感謝されたという。

だが、東映洋画部配給による8月17日からの興行は規模を大幅に縮小、北海道・九州での2週間ほどの劇場公開となり、ほとんど日の目を見なかった。

その後、一部名画座での限定上映や、ホール等での非劇場上映などがおこなわれていたが、製作から約36年後の2010年7月17日より全国で順次劇場公開されることになった。

撮影 西山東男 編集 エディー編集室 配給 東映洋画部 公開 1974年8月17日
上映時間 109分(公開時) 153分(ホール等での上映時) 119分(再公開時) 製作費 2億3千万円
2010・7・19

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