2010年08月13日

◆日中やる気無かった福田

渡部亮次郎

8月12日が来ると日航ジャンボ機墜落事故と日中平和友好条約の調印式が脳裡をよぎる。

1985年(昭和60)8月12日、日本航空123便ボーイング747SR100型機 (JA8119) 羽田空港18:00発 伊丹空港行が、離陸12分後から32分間の迷走飛行の末、群馬県多野郡上野村の山中に墜落した。

搭乗員524名中520名が死亡。旅客機の単独事故としては、世界でも最大の犠牲者数を出した事故である。歌手坂本九も犠牲になった。

1978年に伊丹空港で尻もち事故を起こした際の圧力隔壁の修理ミス(ボーイングによる修理ミス)による飛行中の圧力隔壁の破損が原因とされている。

しかし飛行中に破損し相模湾に落下した部品が全て回収されていないことや、生存者の証言と調査報告書内容が異なることなどから、他の原因を唱える説もある。

私は後年、都内の病院で同室になった日航社員がいた。彼は尻もち事故を起こした際の圧力隔壁の修理に来たボーイング社の連中を接待する係を命ぜられたが、銀座のクラブで皆がホステスに熱を上げ、翌日の仕事には熱が入らなくて困ったものだった、と述懐していた。

まさか、このときの修理ミスが墜落の原因だとすれば、彼の証言は極めて重大な意味を持つが、事故調査委員会に証言したとは言ってなかった。

日航ジャンボ機が伊丹空港で尻もち事故を起こした年、つまり昭和53(1978)年の8月12日夜、北京の人民大会堂では日本の外務大臣
園田直と中国の黄華外交部長による日中平和友好条約の調印式が挙行され、大臣秘書官の私は後列で場面を注視していた。

署名した後立ち上がった両者はシャンペンで乾杯をしたのだが、園田さんはグラスを勢いよく相手にぶつけたものだから、シャンペンが右袖を大きく濡らした。

陸軍特攻隊生き残りの園田さんは剣道7段、居合い道8段の猛者。自刃した作家の三島由紀夫さんに切腹の作法を聞かれるまま教えたことがある。

彼にとって日中平和友好条約の締結交渉は特別なことだったから、
不調に終わった時は「ハラを斬る」といい、洋服の着替えを持たせなかった。だから弱ったな、と思ったが、いかんともできなかった。
とにかく終わった、の感慨ばかりだった。

なにしろ肝腎の総理大臣福田赳夫氏は調印に消極的なのだから、外務大臣一人が独走し、外務事務当局が困惑すると言う場面が何度も展開されて末の調印だったから、格別の感慨に浸ったのである。

それより1年半前に発足した福田赳夫政権は言うなれば園田氏が作った政権と言ってもよかった。

自らの内閣の末期、福田に大蔵大臣を辞めて足を引っ張られてため恨みを忘れない田中闇将軍を説得し、ライバルの大平正芳氏を宥めて「任期2年」の密約を取り付けたのは園田氏だったからだ。

そうやって発足した福田氏は昭和52(1977)年1月4日、自宅に園田官房長官とある人物を招いて、田中、三木内閣が実行できなかった日中平和友好条約の締結に踏み切ることを決断、同席したある人物を視察目的に直ちに北京に出発させた。

この人物は幼少の頃から中国で暮らし、戦後かなり経ってから引き揚げてきた。北京語を完全に話す。剣道を通じて園田氏と知り合った。

「黒衣」氏は北京ではかねて園田氏と交流のあった廖承志らと会い、中国共産党の内部事情を探った。彼のこうした北京訪問は以後、14回続けられる。

その都度「黒衣」から報告を受けていた園田氏は「締結」にかなり自信を深めるが、この情報を鳩山威一郎外相には教えなかったようだ。

そうしている間に、福田首相の親分筋の岸信介元首相は、福田首相に内閣改造をして、女婿の安倍晋太郎国対委員長を官房長官に就任させるよう執拗に要求。

福田首相としては園田氏が「密約」の主役であることに鑑み、躊躇したが、昭和52年暮れ、内閣改造を決断、園田氏の離反を恐れ、彼だけを外務大臣に横すべりさせて残留、後任の官房長官には安倍を据えた。

園田氏はこの頃、大平幹事長に対して「密約」の福田の任期「2年」
の1年延長を交渉中だったこともあって外相就任を喜んでいなかった。秘書官に招かれた私にはそれが手に取るように分かった。

しかし日中条約については行き掛かり上、熱心に取り組んだ。日中関係の強化を嫌うソビエト(当時)が障害になると考え、初外遊に
モスクワを選んだりした。

こうした中で「黒衣」からの報告は「園田さんが来てくれさえすれば調印に応じる」に進展した。今考えれば経済の改革開放を企図するトウ小平の復活で党の方針が変更されかかっていたのだ。

これを北京の日本大使館は掌握できず、「黒衣」だけがいち早く掌握していたわけだ。廖承志はトウ氏に直結していたからだ。大使館は最後まで「取材」できなかった。

したがって元外相として、園田よりは自分の方が外務省を掌握していると自任する福田首相のほうが情報に後れを取る結果となっていた。

昭和53(1978)年8月8日の園田訪中はほぼ園田外相の独断で決定された。日航特別機の予約も然り。秘書官の私はこうした動きを元いたマスコミ界の仲間を通じて福田周辺に流した。

だから、訪中の決断を求めて園田氏が箱根で静養中の福田首相を訪れた際、首相が開口一番「何日、出発するんだい」と言ったのはこうした裏があったからなのである。

後に明らかになるように、福田氏は「密約」を破棄するハラヲ固めていた。だからなまじ「日中」が上手く行って、それが「引退の花道」にされることを警戒していたのである。

密約を厳守した園田氏は総裁選挙では大平氏を支持。福田派を除名された。しかし大平氏は福田氏の意趣返しに遭い、総理在任中に急死。その4年後に園田氏も同じ70歳で死亡。福田氏は90歳まで長生きした。2010・8・12




この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック