2010年08月26日

◆参院議長西岡武夫人物月旦

渡部亮次郎

各党は申し合わせにより、衆参両院の正副議長は就任とともに所属党派を離脱することにしている。院の運営の公平を期する狙いがある。従って正副議長は院を構成する各会派の運営については関知しないのが当然であり、あえて記者会見などを行なって特定会派の代表選挙について容喙することを慎むのは当然の「常識」だ。

しかし、<参院の西岡議長は23日、国会内で臨時の記者会見を開き、9月の民主党代表選に関し、「(首相に)対抗する候補者は相当の覚悟が必要だ。首相を蹴(け)落とそうとするのだから、敗れた場合、党を去ることも選択肢に入る」と述べた。

また「敗者に党の要職や閣僚ポストが与えられる仕掛けは茶番劇だ。政権政党が、甘っちょろい党内の陳腐な就職運動劇をしている余裕は断じてない」と指摘した。

政府・民主党役員人事での処遇を期待した候補擁立の動きをけん制したものと見られるが、政党会派を離脱中の議長が政党の党首選に言及するのは極めて異例だ。

西岡氏は民主党所属国会議員として代表選の投票権は持っているが、自身は代表選で「投票する考えはない」とも述べた。>8月23日19時42分配信 読売新聞

現職政治記者活動中、この人とは全く接触がなかった。昭和38年の総選挙で衆議院議員に初当選以来、11回当選。知事選に出て落選、参議院に回って政界復帰。小沢氏よりも先輩である故をもって、江田議長の下で議運委員長。その故をもって今年、28代目の参院議長に就任。

衆議院での若い時代から動きは派手で頑固なところを見せていたから、政治記者たちも麻痺してしまったのか、議長による特定政党の運営批判という飛んでもない言動を批判することさえ忘れている。

衆議院議員(11期)、文部大臣、新自由クラブ幹事長、自民党総務会長、新進党幹事長、自由党参議院議員会長、参議院議院運営委員長などを歴任。

1936年(昭和11年)、長崎県長崎市に父・西岡竹次郎と、母・ハルの子として生まれる。海星中学校では同期に美輪明宏がいた。長崎県立長崎東高等学校を卒業後、早稲田大学教育学部に入学。雄弁会入会。

長崎新聞社では、常務取締役社長室長、論説委員などを歴任し、長崎青年会議所広報委員長、長崎県青年団連合会会長(初代)なども務め、長崎の若手経済人として活動。

1963(昭和38)年11月、衆議院議員を5期務めた父・竹次郎と、吉田茂が率いる自由党で初の女性参議院議員として婦人参政権運動に尽力した母・ハルの地盤を引継いだ世襲候補として第30回衆議院議員総選挙に無所属で立候補。4位当選を果たし、自民党の追加公認を受ける。自民党青年局長、文教部会長をつとめていた。

ロッキード事件を期に、河野洋平、田川誠一、山口敏夫、小林正巳各衆議院議員、有田一寿参議院議員と共に自民党を離党。1976年6月25日に「保守政治の刷新」を掲げて新自由クラブを結成、西岡は幹事長に就任した。田中角栄に歯向かった。

政策、党の路線をめぐり、亀裂が生じ、1979年7月に西岡は単独で新自由クラブを離党した。1980年12月に自民党に復党したが、1983年12月の総選挙では落選する。このころ九段下の街中を歩いているところで出合ったが、それだけ。


1986年の総選挙で当選した後は宮澤派に所属。文教族としてキャリアを積み、1988年に発足した竹下改造内閣で文部大臣として初入閣。続く宇野内閣でも文相に留任した。

1989年、海部内閣で自民党総務会長に就任し、党三役入り。同年12月、党三役に加藤紘一を送り込みたい宮澤派は西岡に総務会長職の交代を求めるが、これを拒否したため、派閥から除名された。

西岡は1993年12月に自民党を再び離党。改革の会代表、自由改革連合事務局長を経て、翌1994年に新進党結党に参画し、海部党首実現に動く。国会対策委員長、幹事長を歴任。小沢一郎を補佐するが、1997年に新進党は解党した。

1998年1月、小沢、海部、加藤六月らと共に自由党を結成し、副党首に就任。同年2月、高田勇知事が引退を表明した長崎県知事選挙に党内の慎重意見を抑えて出馬するも、同じく新人の金子原二郎に敗れ落選する。

国政復帰を目指し、2000年の第42回衆議院議員総選挙に自由党公認で出馬するが、落選。

2001年7月、第19回参議院議員通常選挙に自由党公認で比例区から出馬し、当選。国政復帰を果たした。

党参議院議員会長、参院会派「国会改革連絡会(自由党・無所属の会)」代表をつとめる。2003年、民主党との合流が決定すると、当初不参加の姿勢を示した。党内では渡部恒三と共に保守派の重鎮であり、党内の保守系議員で構成される永住外国人の地方参政権を慎重に考える勉強会にも参加し、外国人参政権反対を表明している。

2007年8月、議員歴が長く、国会対策に精通している点が評価され、参議院議院運営委員長に就任した。

同月9日、西岡は「次の国会からクールビズの申し合わせを廃棄し、本会議場、委員会室での議案審議に際してはネクタイ着用を義務化したい」と提案した。

すでにクールビズが3年目になり広く浸透していること、参議院先例集にクールビズ以前の1951年8月から半世紀以上にわたり「ネクタイは外していい」という申し合わせが確認されていることなどから、与党のみならず、他野党や身内の民主党内からも批判が出て、この提案を撤回することとなった。

この突然の提案については、クールビズの旗振り役が小池百合子防衛大臣(当時、元環境大臣)であったことから、民主党参院国対幹部の見方として「新進党、自由党と行動をともにしながら、自民党に移った小池への意趣返し」ではないかといった見解も報道された。

2009年10月23日、国会開会式での天皇の「お言葉」が問題になった際「天皇陛下の政治的中立を考えれば、お言葉のスタイルについて軽々に言うべきではない。極めて不適切だ」と岡田外相を批判した。

2010年6月16日、国会最終日で野党が提出していた江田五月議長不信任案、菅直人内閣総理大臣問責決議案、荒井国務大臣問責決議案について、与党民主党の意向を受けて委員長職権で本会議を流会とし、国会最終日に参議院本会議が開かれない異例の事態を作った。

2010年7月の第22回参議院議員通常選挙で民主党が大敗し、民主党は参議院で過半数を割り込んだ。しかし西岡を江田五月の後任の参議院議長とする流れが固まり、自民党は副議長候補を擁立。西岡は21日、議院運営委員長として理事会で国会運営について野党に謝罪した。

しかし、通例では全会一致で決まる議長選挙では西岡は過半数の139票を獲得したものの、白票88票、江口克彦(みんなの党)が11票、尾辻秀久(自由民主党、副議長に就任)が1票と異例の投票結果で、参議院議長に就任した。

「保守」を標榜しながら「波乱」も好きな性格らしい。今後も何か起こしそうだ。初登院の際、母親同伴の始まりの人。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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